第1幕「こんなにたくさんの豆を一人で食べて眠る」

 穏やかな水曜日の昼下がり。

 私の家に、友人のカトリーナとセシリアが遊びに来ていた。

「一番上の息子君、イサク君。こないだ見かけたよ~? ずいぶん男の子らしくなったじゃない」

「あら、そんなことないわよ。昨日もミルクなんか勝手に持ち出そうとして、何に使うんだって問い詰めたら、アリの巣に注ごうと思って、なんて言うのよ? 信じらんないわ」

「あははははははは。男の子って感じで可愛いじゃない」

「可愛いなんてもんじゃないわよ。やんちゃ坊主ばっかりだと、毎日馬鹿が起こるんだから。まったく……」

 セシリアは紅茶で一息つくと、すぐに口を開く。

「それよりマリーちゃんこそ、もう縁談が来てるんでしょ?」

「あらやだ。どこで聞いたの?」

「ヤコブさんとこのご夫人から」

「やーねぇ、あの人。お喋りなんだから」

「いいじゃないの。アリの巣にミルクの話より断然マシよ。マリーちゃんがそれだけ可愛いって話なんだから」

「まあ、そうね。旦那に似て顔が整ってるのだけが救いよ。ガサツなとこまで似なきゃ完璧だったんだけど」

「完璧な子なんていないわよ。それで、どうするの?」

「どうって、まだ十歳よ? 流石に早いでしょ?」

 カトリーナがそう言いながら、渋い顔でナッツの一口ケーキをつまむ。

「でも、早い内に決めといた方がいいんじゃない? 何が起こるかわからないし。特に女の子は、行き遅れたら困るじゃない?」

「まぁねー……」

 きゅっと言葉が胸を締めつけた。「行き遅れ」……。

 もちろん、友人たちに他意がないことはわかってる。でも、三十を過ぎてまだ独身の私には、子供の話をする彼女たちについていけない私には、胸を締めつける言葉だった。

「それにしてもセーラ。アジダハーカ様のこと、残念だったわね」

「えっ。あっ、ああ……、うん……」

「気にすることないよ。セーラが悪いわけじゃないんだし」

「てか、アジダハーカ様けっこうヤバいって噂だったし、むしろよかったんじゃない?」

「ヤバい?」

「そうそう。温厚そうに見えて、変態趣味があるって噂聞いたよ?」

「えー、セーラ大丈夫だった?」

「うん。とっても優しい人だったし、なにもされなかったよ。なんにも……なかった……」

「ああ、ごめん。……でも、アジダハーカ様クラスだと、相当いいとこに頼んで悪魔ばらいして貰ったんじゃない? けっこう長いことやってたわよねぇ?」

「うん。今までで一番長かったかな。なんか、最終的に千種類くらいやったよ」

「千種類? 嘘でしょ? いや、なんか色々やってたのは知ってたけどさぁ。そりゃぁ結婚までにひと月もかかるわけだわ」

「でも、そこまでしても駄目となると、どうしたもんかねぇ~……」

 私には悪魔がいている。

 アスモダイオス、色欲の悪魔だそうだ。

 私が結婚するたび、その初夜に現れては相手の男性を殺してしまう恐ろしい悪魔。アスモダイオスがいるから、私の結婚生活は続かない。私を愛してくれる男性と、たった一晩さえ明かせないのだ。

「あっ、ごめん。そろそろ私帰るね。夕飯の支度、間に合わなくなっちゃう」

「あー、私も」

 二人は慌ただしく立ち上がり、身だしなみを整える。

「二人とも忙しいのに、今日はありがとう」

「何言ってんのよ。独り身のセーラの家があるから、私たちもこうやって集まりやすいんだし。感謝してるのは私たちの方よ」

「そうそう。まあ、セーラは綺麗だし。そのうちいい人見つかるよ。三十過ぎてるなんて見えないもん」

「そんなことないよ。二人とも綺麗だよ」

「あのねぇ。下手な謙遜は嫌味になるって言ってるでしょ? 私なんてこんなに毛穴が目立っちゃって、セーラとは大違いよ」

「ほんとよ。最近すごく乾燥するし、シミもできちゃって……。もう、嫌んなっちゃう。セーラはお肌も心も赤ちゃんみたいなんだから。あんまり悩んですさむんじゃないよ!」

「赤ちゃんって……。ありがとう、二人とも……」

 私は一生懸命笑顔を作ると、優しい二人を見送った。

「じゃあ、また近いうち」

「また近いうち」

「うん、また近いうち」

 私の言葉を最後に、にぎやかだった家は静かになった……。


     *


 食前のお祈りを済ませると、私はスプーンに手を伸ばした。

 今日の夕飯は薄焼きのパンと豆のスープ。

 ターメリックでほのかに色づいたスープが食欲をそそる。スプーンですくってまずは一口。

 レモンの爽やかな酸味と塩でつけたシンプルな味わいが、口の中をさらさらと流れてゆく。もう一口、もう一口と、スプーンが進む。

「……ふぅ」

 一息つくと、平たいパンをちぎって、軽くスープにひたしてから口へ運んだ。噛みしめるとじゅわっとスープが溢れ出して、パンの食感の強弱と混ざり合い、私の口の中を喜ばせる。

 私はスープとパンのハーモニーをゆっくりと味わうと、スプーンを再び手に取って、今度は豆を掬い上げた。スープの中で寄り集まって群れていたひよこ豆が、私の口の中へと送られる。

 じっくり煮込まれてやわらかくなったひよこ豆の、ピヨピヨとした食感が楽しい。小ぶりの豆の群れが、噛むたびに機微のある食感の綾を奏でるのだ。ピヨピヨ、ピヨピヨと、ひよこたちが鳴く声みたいに無秩序で、それでいてリズミカルに口の中を楽しませる。

 私は何度もひよこ豆を掬っては口に運び、その賑やかな食感を、その心躍る味わいを、じっくりと楽しんだ。

 ああ、こんなにもたくさん。ああ、こんなにも美味しい。ああ、こんなにも楽しい。

 なのに、私は一人。美味しいね、と一緒に微笑みを交わす夫もいなければ、あれが嫌いこれが嫌いと駄々をこねて困らせてくれる我が子もいない。

 表情の返って来ない料理を作るのはさびしい。お腹がさびしくなくなっても、口にさびしさが残る。胸にさびしさが残る。そこかしこにさびしさが積もっている。

「……はぁ」

 満腹とさびしさで心を満たした私は、虚ろな満腹を振り払うようにさっさと後片付けを済ませると、早々にベッドにもぐりこんだ。さびしさも一緒だ。

「死にたいよ……」

 思ってもいない言葉が口を突いて出る。死にたくなんてない。ただ、死ぬ意外にこのさびしさから逃れられる方法を知らないだけで、死にたくなんてなかった。それでも、耐えられないくらいさびしかった。

「……」

 私は布団を頭までかぶると、さみしさをまぎらすように自らをなぐさめた。

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