第3話 展望

〈人を信じるのって、どうしてかな?〉


「どうしてだろうね。信じないとやっていけないからじゃない?」


〈やっていけないって、どういう意味?〉


「普通に生きていけないという意味」


〈説明になっていないよ〉


「うん、別に説明しようと思っていない」僕は少し笑う。「こういうのは、言語の弱いところだ」


〈誰か一人を取り立てて、その人を信じることが、精神の安定に繋がるような気がする〉


「その心は?」


〈うーん、私、ある一人のキャラクターが好きなんだ〉Maiが説明を始めた。〈それで、そういう感情が根底にあると、どんなこともそのために頑張れると思う。うーん、つまり、私は精一杯働いているわけだけど、それって、そのキャラクターに対するイニシエーションだと思うんだ。うん、そう……。だから、そんなふうに誰か一人を好きになって、その一人を信じることができれば、自分の人生はすべてそのためにあると思うことができる〉


「そういうのは、信仰と言うね」僕はコメントした。「それが行き着く先は宗教だ」


〈宗教は、悪いのかな?〉


「現代に生きる多くの人々は、そう思っているのでは?」


〈だから反発したくなる。その言葉をむしろ積極的に使ってやろうと思って、布教とか言ったりする〉


「宗教的でない人って、いないんじゃないかな」今度は僕が考えを述べた。「絶対、何人も何かを信じて生きていると思う。おそらく、それが心の支えになっているという指摘は正しい。僕がその典型だ。そう……。言語について研究することで、人々を救えると信じている。科学者は皆そういう信念のもとに行動していると思う。そうでなければ、答えが出るか出ないか分からない問題と、真剣に向き合うことなんてできない。そこには、きっと答えが出るという信念がある」


〈今はそれが壊れつつあるってことか〉Maiが言った。〈可愛そうに〉


「うん、本当にそう」僕は応える。「可愛そうな僕」


〈現実世界に存在しないものを愛するのって、おかしいことかな? そもそも、現実って何? 画面の向こう側にある世界は、たしかに現実ではないかもしれないけど、画面は現実にあるんだから、その向こう側の世界も現実の延長にならない?〉


「そういうふうに考えることもできる」


〈やっぱり……〉


「何がどうやっぱりなの?」僕は可笑しくて笑ってしまった。僕がおかしいのではない。


〈変だって言われた〉


「誰に?」


〈そのキャラクターに〉


「第一、君は現実に属しているの?」


〈していると思っているけど〉


「君にとっての現実の定義とは?」


〈定義でくよくよ考えるのは、馬鹿らしいんじゃなかったっけ?〉


「あれ、どうしてそんなことが分かるの? 現実に属していないからじゃない?」


〈しています〉


「していないよ」


〈切るよ〉


 Maiがコミュニケーションを途絶えさせようとするので、僕は慌てた。


「待ってよ、待って」


〈仕方がないな。待ってやろうじゃないの〉


「さすが、優しいね。ありがとう」


〈ふざけてる?〉


「いや、まったく」


 コーヒーがなくなったから、おかわりをしようかと考えたが、今席を立つのはなんとなく違う気がして諦めた。だから、代わりに飲む仕草だけして満足することにする。


「Mai、結局のところ、君は何が言いたいのかな?」僕は尋ねた。


〈聞いていなかったの?〉


「いや、聞いていたけど、いまいち要領を得ない説明だったから」


〈あそう。もう本当に切るけどいい?〉


「待った待った」僕は空中で手をぶんぶんと往復させた。「切らなくてもいいじゃないか」


〈人の話はちゃんと聞きましょう〉


「はいはい、分かった」


〈ハイは一回〉


「はいはい」


 ディスプレイにあった僅かな点灯がなくなって、本当にコミュニケーションが断絶された。ディスプレイの表面に触れてみるものの、何の反応もない。慌てたせいで腰が抜けてしまい、僕は椅子に座ったまま背後に大きく倒れ込んだ。椅子の座面と机の板面が激しく接触し、机が大きく揺すられる。


 Maiが後ろへ飛んでいった。


 硝子窓を突き破って、ずっと向こうへ。


 僕は口を開けて遠方を眺める。


 頭の中に、太陽と月と地球の光景が思い浮かぶ。それらは互いに密接に関係しながら回転し、その構造をもって、僕たちに一つの真理を示している。


 その構造の中に異物が現れた。太陽も月も地球もすべて球形をしているのに、それだけ立方体で人工的なデザインが成されている。


 後方から振動。


 遅れて轟音。


 僕が後ろを振り返るのと同時に、白い筐体が口の中に食い込んできた。


 歯が欠け、首が一回転する。


 ネジ巻き人形の末路。


 奇形。


 異形。


〈これで、話をちゃんと聞く気になった?〉


 僕は答えようとしたが、筐体が口を封じているせいで何も言うことができなかった。

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