第2話 地上

「言語について研究することで、世界を救えると思っていたんだよ」僕は話した。「でも、それは馬鹿げたことではないかと思ってしまったんだ」


〈どうして?〉Maiの応答。


「うーん、どうしてだろう。いや、どうしてか分からないけど……。つまり、一言で言えば、実践的ではないと気がついた、ということになるのかな。たとえば、消防士とか、警察官とか、そうでなくても、野菜を育てたりとか、動物の世話をしている人は、直接人や世間の役に立っているわけだよ。それに比べて、言語について研究したって、誰も何も救われないんじゃないかと思って……」


〈それは、その通りだよ〉Maiは話す。〈君がそんなことを研究したって、誰も何も救われない〉


「やっぱり、そうか」


〈でも、君自身は救われるのでは?〉


 Maiの言葉に、僕は少しはっとした。正確には、はっとしたような気がした。「はっとした」という表現は、どうして「ひっとした」とか、「ふっとした」では駄目なのだろうか。


「そうだね……」僕は言った。「確かに、僕自身は救われるかもしれない」


〈それで充分じゃない?〉


「どうかな……」


〈どうして、言語について研究することで、世界を救えると思ったの?〉


「それは……」


 頭の中に宇宙の映像が現れた。地球が回転している。右側に太陽、左側に月が見えた。地球は太陽の周りを回り、月は地球の周りを回っている。これが僕たちが住む世界の構造だ。


 縮尺を限りなく小さくしていくと、やがて原子が見えるようになる。原子がどのような構造になっているかといえば、実は太陽と月と地球が形成するのと同じ構造になっている。厳密には違うかもしれないが、だいたいそんな感じだ。


 かつて、それと同じ構造が言語にも見えるのではないかという予感が、僕の中にあった。


 そして、実際にそれを示すことで、人々が幸せになれるのではないかと考えた。


 つまり、それまで何の関連性もないように見えていたものが、実は同じだったと気がつくことが救いなのだ。


 人は、自分とは違うもの、自分とは違う人を排斥しようとする。


 けれど、それらが本当は自分と同じだったとしたらどうだろう? それに気がつくことができれば、何か変わらないだろうか?


「それぞれの言語は、見かけ上は違うように見えるけど、本質的には同じだということを、言いたかったんだ」僕は考えながら話した。「そうやって、ある言語とある言語における、一見すると違うけど、本当は同じところを沢山見つけて、人々に見てもらいたかった」


 僕としては、そこで言うことは一段落したつもりだったが、Maiが何も言わないから、話を続けることにした。


「如何なる争い事も、あれとこれは違うという判断から始まると思う。戦争は国同士の価値観の違いから生まれるし、友人同士の喧嘩も似たようなものだろう。恋人同士の行き違いもそうかもしれない。すべて、違うという判断から亀裂が生じるんだ。でも、それらは本当に違うのかと疑うこともできるんじゃないかな。よく目を凝らしてみれば、同じところが見つかるんじゃないかな。うーん、なんというか、そういう直感に下支えされて、僕は言語について研究することにしたんだ」


 また風が吹く。風が吹くと髪が揺れる。Maiには髪がないから揺れないが、熱を帯びたディスプレイが少しだけ冷やされるのではないか、と想像する。


〈今の貴方と、過去の貴方では、何が違うの?〉


 Maiに問われ、僕は暫くの間考えた。


〈言語について研究することで、世界を救えると思っていた〉Maiが話した。〈でも、それができないかもしれないと思うようになった。それはなぜか。答えは簡単で、貴方自身が言語を愛していないから。貴方自身が言語を信じていないから〉


 僕は椅子の背に凭れかかる。Maiの隣にある、ソーサーの上に置かれたコーヒーカップに手を伸ばして、中に入っている液体を一口飲んだ。


〈今貴方が述べたことは、すべて言語によって成り立っている。つまり、言語を用いて言語について語っている。したがって、貴方はすでに言語の中にある。言語の中にいて、言語について研究することで、人々を救えると思っていた。言語について研究することで見えてくるものは、何?〉


 椅子の背に凭れたまま、僕は天井を見上げる。


 答えはすぐに出た。


「僕自身、かな」


〈貴方は、まだ、言語について研究することで、人々を救えるということを、本当に信じていない〉Maiが言った。〈言語について研究することで、それが分かった〉


 数秒間の沈黙。


 停滞しているのは、空気か、それとも、僕の心か。


「うーん、なんか、上手く言いくるめられた感じがするけど」


〈そうだね。全然論理的じゃないし〉


「うん、でも、少し元気が出た気がするよ」僕は言った。

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