第24話 幸せな夢

 少年の神様の元にカラスが飛んできた。大きな翼をたたむと羽づくろいをしながら話を持ち掛ける。


「ルイのやつ、遂に壊れたか。あんたがちゃんと説明しないから」

「いや、僕は最初からずっと言ってたさ。それでも彼はこの結果を望んだ。……まあ、彼にとっては予想外だっただろうけどね」


 首を傾げるカラスに少年は変わらぬ笑みで続ける。


「なあに、簡単な実験さ。ヒトがどこまでのことをするのか」


 石を二、三個手に取った少年はそれを上に放り投げた。


「ヒトってさ、ほんと愚かだよね。届かない高みを目指して挑んで、でも何かに頼って縋らないと生きていけなくて。そうして自分の力を過信した結果……」


 ぐっと手に力を込めるとバキッという音とともに石が割れ、ばらばらと地面に落ちていく。冷たい息を吐き、目を細める。


「壊れるんだ」



 ルイの脳内に自分の名前を呼ぶ声が響く。高い声……いや、低く優しい男性のような声であると気づいた時、ルイは目が覚めた。


「類、大丈夫か?」


 椅子に座って窓の外を見ていたルイはゆっくりと周りを見回す。チョークで文字が書かれた黒板、カメラの置かれた教卓、制服を着た男女、綺麗に並べられた机と椅子。

 ここが中学校であると気づくのにそう時間はかからなかった。


「類、ここを解けって言ってるんだが」


 先生と思しき男性がチョークで黒板をトントンと叩く。慌ててルイは立ち上がった。


「あ、はい。えーっと、酸化銅と炭素の化合物を加熱して……」


 何か疑問に思うこともなく、前からずっとこの中学校に通っていたかのようにふるまうルイ。黒板に書かれた問題を淡々と解いていく。

 自分の身を包む制服も、加工された木材の匂いも、まるで初めから全てここにあったかのように。この幸せな夢は永遠にルイを閉じ込めてしまった。


 カエデは心臓の止まったルイを必死に揺さぶるが、ルイは反応を示さない。


「ルイ! ルイ!」


 何度叫んでもルイには届かない。その叫びが悲涙に変わった頃だった。


『無駄だ、半妖』


 痺れを切らしたかのようにヤコがルイの体からしゅるりと抜け出した。


「き、きつね……」

「ヤコだ」


 ヤコはゆらゆらと尻尾を揺らしながら、ひどく冷静に説明を始めた。


「こやつは今、夢を見ている。とても幸せな夢をな」

「夢……? ってかあんた誰よ」


 濡れた両目をがしがしと拭きながら、カエデは鋭い眼差しを向ける。だがヤコが動じる様子はない。


「ワタシは神だ。といってもまだ下っ端だからワタシ自身に願いを叶える力などはないがな」


 危機的状況であるにもかかわらず、ヤコはのんびりと毛づくろいを始める。


「ルイには力がない。それ故何かあると神に頼り力をもらう。だが我々の力はそんな安売りはできない。勿論、強力な力を使うにはちゃんと強い体が必要だし、強い精神力も必要だ」


 自分で濡らした前足で顔を洗ったところで一息つき、さらに説明を続ける。


「神の力を使うたびに副作用が起こる。それは必ず精神的なもので……そうだな、いわゆるトラウマのフラッシュバックみたいなものだ。だいたいはこやつの苦手なものの夢を見させるのだが、今回は得た力が強すぎた。生ぬるい副作用じゃ代償としては足りなすぎる」

「でも、幸せな夢だったら副作用としてはおかしいんじゃないッスか?」


 ずっと黙っていたケンシロウが口を挟んだ。ヤコはかぶりを振る。


「そうでもないさ。辛く苦しい夢ならば早く覚めろと思う。だが幸せな夢ならずっと見ていたいだろう? だから精神が夢から戻れなくなる。まあ、三途の川のようなもんだ」


 ヤコの目がルイに移る。


「そのままずっと夢を見たまま、死んでしまうのだ」


 言い終わるのを待たずにカエデがヤコの両頬をつねった。


「何してんのよ! さっさとルイを返して!」

「や、やめろ半妖! 別にこの副作用は我々が決めてやっていることではない! ワタシにはどうにもできんのだ!」


 カエデから離れたヤコは頬を撫でて逆立った毛を元に戻す。


「……と、いうわけだ。こやつがこの世界に戻ろうという気がない限りは生き返ることはない。もっとも戻ろうと思っても戻れる保証はどこにもないがな」


 カエデはまたルイを起こしにかかった。胸部を強く押して心臓マッサージを施す。


「聞いてなかったのか? 無駄だと言って――」

「うるさい!」


 カエデは泣き叫びながらヤコの言葉を振りきり、必死に心臓マッサージを続けた。


「ルイが戻ってこないわけがない! この世界を、嫌ってなんかないんだから! うちらのこと置いて、どっかに行ったりなんかしない!」



 誰かに名前を呼ばれたような気がしてルイは手を止めた。途端に脳がゆっくりと動きだす。拭いきれない違和感の正体を必死に探るため、ゆっくりと視線を移動させていく。

 チョークで文字が書かれた黒板、カメラの置かれた教卓。……カメラ?

 ルイは教卓の上に置かれたカメラをじっと見つめる。綺麗に整備された一眼レフカメラに、なぜだが妙に惹きつけられる。

 この光景にことに気づいた時、ふとルイの頬を生温かいものがつたっていくのを感じた。どれだけ拭っても、ルイの頬を濡らすそれは止まらない。


「類?」


 ここが中学校で、自分のクラスならば――ルイはここでようやく先生を見た。気崩したスーツ。派手な黄色いネクタイ。細い銀縁の眼鏡。

 絡まっていた記憶の糸がほどけ、彼の名を静かに口にした。


「黒川せんせ……」


 これが神から力をもらった副作用であることをようやく理解したルイ。それでもやはり涙は止まらない。夢だと分かっていても噛みしめずにはいられなかった。この幸せな世界を。望んでいた、平凡で退屈な日常を――


「ルイー!」


 自分を呼ぶ声が聞こえ、ルイははっとした。


「か、帰らなきゃ……」


 か細くそう呟く。忘れてしまっていた、大切なものを置いてきてしまった世界のことを思い出したのだ。

 黒川先生は優しい笑みを見せる。


「どうして帰るの? ここにいたいだろ? ここはお前が望んだ世界だ。ここがお前の居場所だ」


 甘ったるく優しい先生の声を振りきるようにルイは教室から逃げ出した。慌てて黒川先生がルイの手を掴む。


「離してくれ先生! 俺は帰らなきゃいけないんだ! 大事なもの、やらなきゃいけないこと、いっぱい置いてきたあの場所に……」


 ルイの言葉を遮るように黒川先生が抱きしめ、甘い言葉をささやく。


「お前が全部抱え込む必要なんかない。やらなきゃいけないこと、全部放り出しちゃおう。別にお前がやる必要なんかないんだから」


 黒川先生の胸の中でルイは固まる。背負っていた重しが崩れるような、それと同時に自分のアイデンティティさえもなくなってしまったかのように、空っぽのルイの心に微かなひびが入るのを感じていた。

 逃げてしまおうか。辛く苦しい自分の責務から。この世界で何も知らないフリして、何もかも忘れてしまったフリをして。


「くっふふ……」


 肩が震えたかと思えば小さな笑い声をあげたルイに黒川先生は顔をしかめる。ルイは黒川先生から離れ、正対する。もうその眼に迷いはなかった。


「帰るよ、先生」

「でも……」

「確かにここで過ごすのも悪くないと思った。全てを忘れて何も知らないフリして、永遠と覚めない幸せな夢を見ることは願ったり叶ったりだ」


 黒川先生が口を開こうとするが、すぐにルイが言葉を発した。


「でも、俺が永遠に戻らなかったらあいつに何されるかわかんねぇから」

「あいつ?」


 ルイは歯を見せて大きく笑った。


「気が強くて喧嘩っ早い、俺の大事なヒト」


 黒川先生は一瞬ぽかんとした後、一言そうか、と呟いた。その瞬間、周りの景色は全て消え、辺りを水が覆いつくした。真上には光。いつもの副作用だ。だがいつもと違うことが一つ。光と反対側、水の底と思しき方には黒川先生が沈んでいる。暗い顔で、鋭くルイを突き刺す眼差しで。


「さあ選べよ。俺か、元の世界ひかりか」


 息苦しさに襲われながらルイは黒川先生を見つめる。ここで黒川先生の方に行けばルイの魂は永遠に元の世界に戻れないだろう。

 ルイは水をかきわけて泳ぎ出した。に向かって。


「それがお前の答え……なんだな」


 弱々しく響くその声で溢れそうになる涙を必死にこらえ、沈ませようとする力に必死に抗い、ルイは光に向かい突き進んだ。


――ドクンッ


 ルイの体が大きく跳ね上がり、カエデはルイの胸から手を離す。一つ間が空いて大きく咳き込んだルイの心臓がまた活発に動き始めた。

 ヤコは信じられないとでもいうように目を見開き、声を漏らす。


「戻ってこれたのか……」


 ルイが息を切らしながら無言できょろきょろと首だけを動かしていると、わなわなと震えているカエデが視界に入った。


「ルイー!」

「わっ!」


 勢いよく飛びつかれたルイは木の幹に頭をぶつける。


「いてぇよバカ」


 頭をさするルイの胸の上でカエデは動かない。微かに震えていることに気づき、ルイはポンと頭を撫でた。

 見上げると、怪我を負ったケンシロウと目が合った。顔を曇らせたケンシロウにへらっと笑みを見せる。


「心配したじゃない! バカ! なんなのよ、狐とか神様とか!」


 顔をあげたカエデが涙目できゃんきゃん騒ぐ。思いだしたかのように視線を左にずらすと、こちらをじっと見つめているヤコと目が合った。ヤコは喜びもせず、ただ無表情でいる。


「よく耐えられたな。もう戻ってくることはないと思っていたが」


 もしかしたら自分は死んでいたかもしれない、と思ったルイは自分の心臓がきゅっと鳴る音がした。そして自分が戻ってこれたという事実に気を取られすぎて、目の前の出来事に気づくのが遅れてしまった。


「ユウ……?」

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