木登り事件

 ロンバルディア教国の国都アルジャントゥイユの北方角に鎮座する王宮レユニオンパレスは、広大である。それ自体がひとつの街と称してもよいであろう。王宮は各種国事行為や式典、パーティーや園遊会を開く社交場であることは当然だが、住居としても機能している。一人の女王と、一人の王女、彼女らにかしずく住み込みの女官や近衛兵らの住まいとして、である。

 通常、近衛兵は王宮内にもうけられた近衛兵団の宿舎で寝泊まりする。国の支配者である女王一家と、護衛役に過ぎぬ近衛兵団の兵卒が同じメインパレスで起居するのははばかりがあるからである。だがブランシュ兵団長、レジーナ副兵団長ほか、一部の旗本は、例外的にメインパレスに個室が割り当てられている。緊急の案件に対応したり、女王一家の生活と日常的に密接な関わりがあるためだ。

 エミリアは、その数少ない例外となった。王宮のメインパレス、それもプリンセスの部屋の隣に個室をもらったのである。にわかには信じがたいほどの厚遇であった。

 加えて、帯剣も許される。王宮内で剣の携行を許されるのは、百人長以上の幹部と、女王の旗本のみである。旗本は、交替で女王の警護にあたり、一部は重要閣僚の護衛任務にも就く。逆に言えばそれ以外の者は、王宮内で帯剣することは基本的に許されない。

 エミリアの場合、常にプリンセスの傍らに付き従い、我が身に代えても守る必要性がある以上、帯剣の資格を得るのは当然のことである。それにしても、12歳で王宮を帯剣で歩くことになろうとは。

 プリンセスは王女冊立さくりつの正式な告示まで、国事行為への参加はない。当面のあいだは、王宮での生活に慣れるのが優先事項である。同時に、エミリアとしてはこの時期に自分に対し信頼を持ってもらう必要がある。これはこれで、重要な務めではある。

 初めて二人きりで話したのは、プリンセスの補佐役を任命された翌日、つまり補佐役初日の朝であった。王宮の最も小さな応接室で、まだ幼い彼女らは始めこそ互いに緊張しつつ、急速に親和と信頼を深め、気付けば正午を過ぎていた。

 この席上、彼女らのあいだでいくつかの決め事ができた。

 互いをどう呼ぶか。

 宮廷風の儀礼や挨拶は二人のあいだに限っては省略すること。

 そして、互いに隠し事はしないこと。

 エミリアは最初、女王に対するのと同様に、最上級の敬意と礼節をもって接しようとした。だが、プリンセスは「臣下としてではなく、家族として、例えば姉のように自分に接してほしい」と言ったため、考えを改めざるをえなかった。それに、女王からも「ときには姉のように導いてほしい」とも言われている。あまりに礼儀にこだわりすぎるのも、御意ぎょいに背くことになるであろう。

 だが、エミリアには姉のような接し方というのがよく分からない。彼女には兄弟姉妹がなく、常に自分より年長な人間の群れに混じって生きてきたので、姉という存在が持つ親しみやあたたかさのようなものが具体的には想像できなかった。

 姉のように接する、ということをはっきり体得し実践できるようになるには、実際、数ヶ月から数年がかかった。

 プリンセスの宮廷生活はすでに始まっている。彼女はエミリアから宮廷における礼儀作法を教わり、教わるとすぐに細部まで身につけた。数日で、相手の身分に応じた挨拶を完璧にこなせるようになった。

「おそれながら、聡明なること類稀たぐいまれなし」

 プリンセスの日々の様子に関する報告書の最後に、エミリアはそう書き送った。贔屓目ひいきめだからではない。事実、プリンセスはまるで全能の神が守護についているかのように、あらゆる儀礼やしきたりを把握し、王宮も自ら歩いた場所はよく見知った庭のように構造を記憶し、さらに一度でも挨拶をした者は顔と名前をすべて記憶した。

 マリエッタ女王はエミリアから送られてくる報告書に目を通しては、日々喜んだ。

 もっとも、プリンセスに関連する政治的情勢は、歓喜とはむしろ対極にある。養女選定会議で決めた五つの貴族家に対し、断りを入れることで本件を落着させたい女王と、予定通りに顔合わせと養女引き取りを完遂させたい政府高官らとのあいだで、なおもせめぎ合いが続いていたのである。

 特にファティマ神官長の女王の判断に対する懸念は強い。彼女はプリンセス・エスメラルダの迎え入れ自体には、マリエッタの断固たる意志を察してもはや反対を述べることはしなかったが、折衷案として貴族家からも予定通り養女を入れることを考えた。王女は別に一人である必要はない。第一王女、第二王女、それが第三、第四といても不都合はない。例えばプリンセス・エスメラルダよりも年長の養女を第一王女として立て、それが未来の女王となるなら、貴族家からの反発も少しは抑えられるであろう。

 だが、事がプリンセスのこととなると、マリエッタの人格は奇妙なほど頑固に、よりありていに言えば、わがままになるのであった。これまでマリエッタは官僚や貴族との関係に波風を立てるような独断専行は一度としてなかったが、ファティマ女史の提案に対しては言下に却下した。彼女としては、第二王女などという半端な、言うなればおまけのような身分ではなく、この国における最高の貴人として、プリンセスを扱いたい。

「それではこうしましょう」

 ファティマ女史も容易には引き下がらない。

 最終的に裁可された案は、まず各貴族家に出した招待状はそのまま有効とし、予定に沿って顔合わせを行う。その上で、プリンセス・エスメラルダを第一王女に、貴族家から選んだ令嬢を第二王女に立てることを公表する。無論、プリンセス・エスメラルダは孤児院に暮らしていた平民ではなく、しかるべき貴族の令嬢であるとして公示する。

 マリエッタに不服がないわけではない。だがそうでもせねば貴族からの不平不満を抑えきれぬというのも分かるから、やむなく折れた。プリンセス・エスメラルダが少なくとも第一王女であれば、女王の相続権の点でも強いし、第二王女との差別化も、女王の采配によっていくらでも可能である、と思ったのである。

 こうして、各貴族家の令嬢との面談は予定通りに行われた。いずれの顔合わせも和やかな雰囲気で進んだが、マリエッタとしてはプリンセスよりも年上の令嬢を迎えるつもりはない。プリンセス・エスメラルダを第一王女としたい以上、彼女よりも年下の者しか選択肢として残りえないのである。となると、候補は必然的にトスカニーニ侯爵家のカロリーナ令嬢、ロサリオ男爵家のミシェル令嬢、チェーザレ伯爵家のコンスタンサ令嬢のみに限られる。

 このうち、ミシェル令嬢は容貌が醜いため外すようにファティマ神官長が進言し、コンスタンサ令嬢は幼いためなお資性の醸成を待ち、来年に改めて顔合わせし見極めることとなった。

 そして残るカロリーナ令嬢は、養女となることが即決された。マリエッタが望んだというより、審査官一同が満場一致で問題なしと認めたためである。マリエッタとしても特に欠ける部分が見当たらなかったため、選出を了承した。

 が、あまり可愛く思えない。カロリーナはどちらかというと控えめな態度なのだが、精神的にはどこかに不安定さが感じられる。それに聡明さでも劣る。プリンセスと比べれば、その資質という点で、一回りも二回りも小粒に思えた。

 だが、当のプリンセスはこの決定をひどく喜び、感激した。なんといっても、彼女に妹ができるわけである。たとえ義理の妹であっても、勝手の知らぬ王宮に住まい心細いなか、同い年の妹がやってくるのはうれしいらしい。

 カロリーナは、その私領にあるトラモント城で転居の準備や王女としての帝王教育などを一ヶ月間ほど受け、王宮に入る。

 その間、王宮ではプリンセスに関して大小様々な事件があった。

 例えばそのひとつが、「木登り事件」である。プリンセスは穏やかではあるが明るく活発な一面もあって、孤児院で暮らしていた頃からたいそう丈夫で活動的であったらしい。特に体を動かすことが好きであった。

 この時代、貴族には趣味としてのスポーツはあまり文化として根付いておらず、どちらかというと汗をかくことは下品で野蛮な行いであるとされた。例外的に、乗馬は高貴な身分のたしなみであるとされた。最近の貴族の流行りは、スンダルバンス同盟産の茶葉から抽出した紅茶を楽しむティーパーティーや、高名な音楽家を招いた演奏会、腕利きの画家に自画像を描かせることなどである。

 宮廷社会というものは往々にして狭く、その文化は同じ時代にあっては画一的である。内部の流行から逸脱した行動は、非貴族的であるとして物笑いの対象となる。その意味では、プリンセスの行動は多くが型破りであった。

 その日、プリンセスはエミリアひとりを連れ、王宮敷地内東方にある庭園を散歩していた。あまり大仰な警護隊がつくと、王宮に出入りしている貴族連中に怪しまれてしまうため、正式な布告前のこの時点では、その程度の警備体制である。もっとも、大人数での行動をプリンセスが嫌ったため、告示後もほとんどの場合でプリンセスはエミリアのみを連れて歩くことが多かったが。

 庭園には無論、多くの木があり、当然、リスが住まう木もあるだろう。散歩の最中、リスが木を駆け上がってゆくのを見たプリンセスは、おもむろに枝に手をかけ、木の幹をよじ登り始めた。

 エミリアは動転した。考えられない行動であったが、しかし、彼女は止めなかった。彼女の忠誠の対象は、宮廷社会の慣習ではない。プリンセス個人であった。彼女に限っては、女王への忠誠よりもプリンセスへの忠誠が優先されることを認められている。プリンセスがそうしたい、と思ったことは、それが道義や道理に外れない限り、他人が何を言おうとも、彼女は止めない。プリンセスは恐らく、木に登って、リスの巣を見たいに違いない。であれば、彼女はそれを止めるのではなく、下から見守って、例えば誤ってプリンセスが木から滑り落ちたら、自分が下敷きになっても守るといった、そうした行動こそが自らの役目であるはずだと思った。

 が、彼女以外の者の見方は異なる。

「エミリア、巣を見つけたわ!」

 プリンセスのその声は、常は静かな王宮の庭園に響きわたり、居合わせた貴族や近衛兵の耳目を集めた。たちまち、数人の近衛兵が集まってきて、木から降りることを求めた。プリンセスは、そのなかでも最上級将校であるペネロペ百人長から木登りの危険さと高貴な身分にあるまじき振舞いであることをさとされ、エミリアも叱責を受けた。

 同時に、「事件」はブランシュ近衛兵団長とマリエッタ女王にまで上げられた。

 女王はプリンセスを呼び、尋ねた。なぜ、木に登ろうと思ったのか。

「私のせいで母上を困らせて、申し訳ありません」

「プリンセスよ、責めているのではない。あなたの気持ちを知りたいだけである」

「リスの巣を見たかったのです」

 いかにも哀れな、という表情を女王は見せた。元気な少女であれば、もっともなことである。リスが木を登ってゆくのを見たら、子供は誰もがそのあとをついて自分も登りたくなるであろう。たったそれだけのことで、この愛らしい少女は、王女らしからぬ行いであると一方的に責められ、ひどく落ち込んでしまっている。いつも明るく快活な性格であるのが、今はずっと下を向いて、目を合わせようともしない。

「プリンセス、母の目を見よ」

「はい」

「よいか。あなたは何も悪くはない。みなが間違っている。宮殿はあなたの家であり、庭園もあなたの庭です。はばかりなく、思い思いに過ごすがよい。しきたりや慣習や儀礼に、なんの意味があろうか。庭園には、身分を問わず木登りを許すむね、立札を立てさせよう」

 以来、レユニオンパレスの庭園では木登りが解禁され、プリンセスはいつでも好きなときに木によじ登ることができるようになった。

 そしてトスカニーニ侯爵家のカロリーナ令嬢が4月25日、王女として王宮に入った。

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