エミリア・マルティーニ

 近衛兵団における士官候補生であるエミリア・マルティーニは、この年12歳になる。

 通常、近衛兵団は15歳ないし16歳くらいでようやく入団できるものだが、彼女はそれよりもまだ3歳年以上若い。とは言え、彼女はおおよそ半年以内には正式に近衛兵となることが予定されていて、そうなれば近衛兵団の歴史上において最年少の記録であり、またそれほどに、彼女がありとあらゆる才能に恵まれていたことを示す事実でもある。

 背丈は10代後半の若手近衛兵たちに遜色はなく、容貌も常にきりりと引き締まって、高峰の冠雪を思わせるような色白の肌と、くすみのない明るい金髪が、彼女をいっそう大人びた雰囲気にしている。

 剣技や教養は群を抜いており、立ち居振る舞いの見事さは宮廷に出入りする貴族たちも目を細めるほどであった。近衛兵に求められる素養のすべてですでに優秀の域であるとされ、いずれは近衛兵団長への就任をさえ嘱望しょくぼうされるエリート中のエリートである。

 近衛兵団の幹部候補となって初めて、彼女は兵団長のブランシュに呼び出しを受けていた。ブランシュと個人的な面識はなく、落ち度ややましい点などは一切なかったが、突然の呼び出しには重大な用件があるためであろうから、緊張のため胸の鼓動が速くなる。

 近衛兵団には、小さいが専用の応接室が宮廷内にある。部屋に入ると、ブランシュ兵団長がわざわざ立って出迎えた。

「あなたが、エミリア・マルティーニね」

「はい、マルティーニ近衛士官候補生です」

「エミリア、掛けて」

 ブランシュのことは、何度か見かけたことがある。近衛兵団約1,800名の長でありながら、偉ぶるところが一切なく、目尻にはいつも穏やかな笑い皺が寄っている。近衛兵団長としての職務はほどほどにこなすが、何かに怒ったり大声を張り上げるということもなく、およそ護衛隊の指揮官という風格がまるでないことから、「もう一人の女官長」などと、兵団内では揶揄やゆされている。マリエッタ女王の使い走りのように使われていると、人には見られているのである。

 副兵団長のレジーナが厳格で謹直な人なので、その二人のバランスで、近衛兵団はうまく回っているとも言われた。

 だが直接、至近で対してみると、細身でしなやかそうな体躯たいくに、黒のチョハがよく似合い、左腕の腕章が赤く映え、銀灰色ぎんかいしょくの瞳に独特の渋みと包容力があり、エミリアは初対面で彼女に対し好意を持った。

 もっとも、好意を持ったという表現は、近衛兵団の末席にすら名を連ねていない12歳の少女が、3倍以上も長く生きている兵団長に対して使うにはやや大それた表現であるかもしれない。

 ブランシュはおっとりした口調で、緊張をほぐすための雑談を始めた。

「あなた、近衛兵団の士官候補生になってから、3年ほどだったかしら」

「はい、まもなく3年になります」

「とても優秀と聞いているわよ。例えば百人長のパトリシアは、百年に一人の神童と」

「身に余るお言葉です」

「みながあなたに期待しています。重圧に感じるかもしれないけど、あなたなら重圧もうまく力に変えられるでしょう」

「お言葉を肝に銘じ、期待を裏切らぬよう精進します」

 まるで弓を引き絞ったかのような表情のエミリアに、ブランシュは思わずほほ、と笑い声を上げた。年を重ね、円熟した彼女にとっては、いくら神童と呼ばれるほどの才能があり、大人に混じって老成しているとはいっても、目の前で緊張を隠せずにいるエミリアが我が娘のように可愛い。

「本題が気になって仕方がないようね、いいわ。実はまだ公にはされていないけど、陛下が養女をお迎えなさる。つまりはこの国の王女ということになるわね。その補佐役に、あなたを任命したいの」

「補佐役、ですか?」

「そう、補佐役よ。身辺のお世話や警護は無論のこと、ときには姉や師のようにプリンセスを導き、ときには友のように一緒に遊んだりして差し上げなさい。一日とて休みはなく、片時もおそばを離れてはなりません。プリンセスがお休みになるまでお仕えし、プリンセスがお目覚めのときにはあなたは身支度を済ませ帯剣していなければなりません。そしてプリンセスのためならば命をも捨てなさい」

 重い木槌きづちか何かで、頭の鉢を割られたようにエミリアには感じられた。最後の言葉は、12歳の少女に対してはあまりに過激で衝撃的な命令ではなかったか。当のブランシュは、柔和な面相を崩してはいない。

「それができないのなら、辞退なさい。ほかの者を考えます」

 エミリアは辞退しようなどとは微塵も考えなかった。近衛兵団の最高指揮官から、まだ見ぬ新しき王女の無二の補佐役たれ、命をも捨てよと言われている。名誉であり、うれしかった。そして自分の命を捨てるだけの忠誠の対象を得られたことに興奮していた。この精神のはずみも、12歳という物事にひどく感じやすい年齢であったことも関係しているかもしれない。それ以上に、何か運命のような大いなる力の存在を、彼女はこの打診に感じていた。

 かあっ、と白い肌に血をさしのぼらせつつ、エミリアは即答した。

「そのお役目、何卒、私にお命じください。私の一命を、プリンセスにお捧げします」

「あなたが期待した通りの者でよかった。ではこれから、陛下のもとへ行きます。忠誠の誓いを、陛下とプリンセスに捧げなさい」

 ブランシュの案内で小さな応接間に入ると、そこではすでにマリエッタ女王が待っていた。近侍しているのは旗本の俊秀として知られるミリアム近衛兵。女王の向かいに背筋を正して座っている見慣れぬ少女が、プリンセスであろう。

「陛下、プリンセス。エミリア・マルティーニ近衛兵です」

「マルティーニ近衛兵、参上しました」

 頬が紅潮しているのを自覚しつつ、エミリアは精一杯の誠意と敬意を短い挨拶に込めた。

「もそっと近くへ」

 女王の顔は、無論知っている。が、近くで顔を見るのは初めてである。太っていて、まぶたの重そうな人だと思った。それ以上の印象は、あまり残らなかった。

 エミリアの関心は、彼女がこれからの人生、もしかすると彼女自身が死ぬまで絶対の忠誠を誓うことになるかもしれない、プリンセスの方へと向いていた。その印象は女王よりもよほど鮮やかで、隠しきれない好奇心と利発さとが、エミリアを見る瞳のなかにたたえられている。

 しかし、言葉はまず女王から下される。

「エミリアよ、ブランシュから話は聞いたか」

「うかがいました。私に大役を仰せつけくださること、一生の栄誉でございます」

「ブランシュのたっての推薦である。余からも、直々じきじきあなたにお願いしましょう。余人がどうであろうと、あなただけはプリンセスの味方でいるように。余への忠誠よりも、プリンセスへの忠誠を優先しなさい。すべては、プリンセスのために」

 このときの感激を、エミリアは生涯、忘れることがなかった。この国で望みうる最上の幸福を手にしたように感じた。近衛として、忠誠の対象を得ること、それも女王から直接、忠誠を負託ふたくされるというのは、あらゆる富にまさる名誉である。彼女は、次の女王を、その未来までをも託されたということになるであろう。それは彼女自身の未来であり、同時にこの国の未来でもあった。

 多感な12歳の少女が淡々として受け止められる出来事ではない。

 女王はさらに、プリンセスを託した証であり、また褒美として、銀のチョーカーを彼女にたまわった。

 エミリアはチョーカーを押しいただくようにして、そのまま退出した。翌日から、エミリアには個人の私的な時間という概念がなくなる。せめて今日は身辺の整理や、半日の休暇を楽しむがよいとの御諚ごじょうである。

 エミリアの気配が消えてから、女王は静かに下問するに、

「ブランシュよ。かの者を推薦したについてはずいぶんと自信があったようだが、果たして任にえうるのか」

「無論ですとも。陛下にはご不安な点でも?」

「余には分からぬ。プリンセスは、いかが思われたか?」

「はい、陛下。私にも分かりませんが、まずは二人でゆっくりお話ししてみたいと思います」

「それがよい。それと、陛下ではなく母上と呼ぶがよい。そなた自身が陛下と呼ばれる身分も同然。私が持つものは、半分はそなたのものでもある」

「はい、母上。ありがとうございます」

 マリエッタ女王は、プリンセスとともにある時間に限っては、別人のように満悦である。公務の際はいつも退屈そうでいるのが、よほどこの少女を我が娘として迎え入れたことが喜ばしいらしい。

 しかし、今回の件に関連する手続きや雑務はむしろこれからが大変である。

 まず、プリンセス誕生のむね、民衆に対して布告せねばならない。孤児院で拾った、と真実をそのまま報道するのでは外聞がよくないし、プリンセスの政治的地位を揺るがしかねないから、出身とするにどこか適当な貴族家を探し出し、それらしい筋書きも用意せねばならない。

 また、政府官僚もマリエッタの説明に納得したわけではない。今は女王の思わぬ強硬な態度に彼らも怯んではいるが、いずれ反対の狼煙のろしを上げて、政権の足かせにならぬとも限らない。

 そして最大の問題は、いみじくもファティマ神官長が指摘した通り、各貴族家が強い不快感をおぼえ、その一部は激しく抗議してくることであろう。名もなき平民の少女に次期女王の座を奪われたとなれば、貴族の沽券こけんにかかわる。貴族は各地方にそれぞれの分限ぶげんに応じて荘園を持ち、この領域は一種の治外法権が働いていて、女王の力も及ばない。領土を持つ以上、軍事力も有していて、そうした貴族の連合体は、王家に対して隠然たる影響力を有しているものである。

 その影響力を背景に、いまいましい横槍を入れてくるに違いない。

 だが、何はともあれ、マリエッタとしては強行するつもりでいる。この小さくも輝かしきプリンセスを守り、育ててゆくことに、残りの人生のすべてを捧げてもよい。マリエッタは本気でそう思い始めている。

 溺愛、と言ってよいであろう。

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