05---灯台守---

 まだ荒れ狂っている波打ち際で、私は彼女の身体をなんとか掴んで引きずり上げた。こちらが抱えやすいようにわざわざ人型に戻った彼女は、疲れたよ、と半笑いを浮かべている。まだそれくらいの余裕があるのかと安堵したのも束の間、ふいに青白い面から表情が消え失せて、凍えた指が私の頬に触れた。その手は小刻みに震えていた。


「ト……ダイモリ……さんと……約束、した……わたし、トーダイ、守る……」

「……頑張りすぎだ。もう、充分だよ」

「んー、うん……」


 休まなくちゃ、と彼女は続けた。力を使い過ぎたから長い休眠を取らなければならないのだと。それがほんの数時間や数日では済まないことは、硝子玉のように虚ろな眼差しを見ればわかる。秘色の瞳に映り込んだ空はどんよりと曇っていた。

 それなのにまた、微かに口端を震わせて彼女が呟く。


「……えへへ……まも、った……わたしの……」


 その先の言葉は小さすぎて聞こえなかった。彼女があまりに疲れ果てていたものだから、私は聞き返すことを躊躇った。

 彼女は自らタイを解いて、それを私に手渡した。途端に色を失って溶け崩れていく指先と、妙に確かな感触の朱赤が対照的すぎて、私は言葉を詰まらせる。半透明の流動体は、どれほど抱き締めたくとも腕の中に収まってはくれない。

 まるで浜辺を歩く足の指の間から、砂が零れ落ちるように。私の掌から、海水と見分けがつかないほど薄いそれが、悲しくなるほど滞りなく流れ出ていく。掻き集めても掻き集めても。


 私は静かに嗚咽した。

 泥だらけの手で乞うた友は、もう欠片もその場に残ってはいなかった。




 あれから二十年、彼女に関する記憶は日毎に乏しくなっていく。今となっては、漁業組合の人たちなどはその存在を覚えてすらいないが、それを責めることはできない。そういうものなのだ。彼女には他人の意識に残らないという特性があるらしい。もしかすると、故郷を離れて異地に忍び込まねばならなかった異邦人の気遣いかもしれない。

 私だけがこれほどよく憶えているのは、預かっているタイの効果だ。これを眺めたり手にすると、あの楽しかった日々が胸の内に色づいて蘇る。それでも年月を経る間に名前だけはすっかり抜け落ちてしまったが。

 けれどもその長さを、決して無為に過ごしたわけではない。


 二十年の間、色々なことを考えた。たとえば百年前の灯台守は何を思って彼女を保護したのだろう。彼と約束した、とはよく彼女が口癖にしていたが、そこには単に灯台の管理だけでなく、人に会ったら挨拶をしろだとか人前で溶けてはならないだとかの、彼女がここで心地よく暮らすための知識というか作法のようなものも含まれていた。

 言葉を教えたのもそうだし、恐らく学校に行くよう勧めたのも彼だ。もしかすると我が子のような感覚だったのではなかろうか、などと思ってしまうのは、なかなか無根拠な妄想である。とはいえあの無邪気な笑顔を思えば、それほど突飛な想像でもあるまい。

 何しろ当時の灯台守は住み込みであったはずだ。つまりは彼女と一緒に暮らしていたのだから。


 このとおり私は故郷を離れなかった。今では彼女の代わりに灯台の管理をしている。組合からは灯台守と呼ばれているけれども、あくまで代行のつもりだ。かつてそう呼ばれた人の後継ぎは彼女なのだから。

 つまるところ、今でも私は彼女の帰りを待っている。あの日海へと溶けていった彼女が、もう一度形を為してこの浜辺に戻って来られるように、ここに帰還を望む人間がいることを知らせるために、毎夜、真っ白な光を灯すのだ。

 決して曇らぬよう念入りに燈鏡レンズを磨き、ときどき塔の頂に上がっては赤いタイを空に振る。


 ――見えるかい、友よ。

 私はここにいるよ。あなたの帰りを待っている。あなたの代わりに、灯台を守りながら。



 彼方の水面に、透明な魚が跳ねた。



 --- 終わり ---

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灯台守と鯨の夢 空烏 有架(カラクロアリカ) @nonentity

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