04---防波堤---

 夜、灯台の光を見るたび彼女のことを考えた。今ごろどうしているのだろう、海水に浸りながら故郷を懐かしんでいるのだろうか。私が発した無神経な言葉に本当は傷ついたのではなかったろうか。

 私とつるむようになって以降、彼女は昼間の空を見上げることこそなくなっていた。それでも生まれ育った土地を忘れることなどあるだろうか。私はこの町を出たことがないからわからない。二度と故郷に帰れないというのは、いったいどんな気持ちなのだろう。

 沖に出た船は、暗い夜でも灯台の明かりを頼りに港に戻って来られる。なのに彼女の星はここからは見えない。



 ある夜、どおんと鈍重な音がしたような気がした。異音は思い過ごしかというほど微かで、まだ夜明け前だったこともあり、それを夢現に聞いた私は己が寝惚けているのだと思った。今しばらく惰眠を貪ろうと布団に潜り込んだところで、そんな私を揺り起こすように――否、そう表現するには荒々しすぎる衝撃が辺りを襲った。

 そう、今も名前をつけて語り継がれている、あの大きな地震だ。

 激しい揺れに私は為す術もなかったが、幸運にも真上に倒れてきた戸棚が、上手いこと飾り棚に押し留められたために盾の役割を担ってくれた。棚の上に並べていた写真立てやら何やらは落ちてきたが、頭から被っていた布団に守られて事なきを得た。とはいえ飾り棚を留めている釘の近くの壁にひびが入ってしまった。長くは保たないだろう。

 両親は寝室に大きな家具がなかったのもあってこちらも無事で、我々は声をかけ合いつつ、取るものも取り敢えず家から脱出した。


 指定の避難場所は私の通うあの学校である。か細い手燈ランタンの明かりを頼りに、這う這うの体で丘を駆け上がった我々は、講堂のごちゃごちゃした空気の中でようやくひと息吐いた。


 津波が来る、と誰かが言った。丘の上までは来ないさ、と他の者が続けた。とても眠る気にはなれず、誰もがそわそわと落ち着かなげに辺りを見回しては、誰それは逃げてきたのか、居るのか居ないのか、などという声が薄闇の中で繰り返された。

 私は俄に彼女のことを思い出した。夜が明けないうちは海水を吸っているはず、いくらドロドロ人間でも津波に呑まれてはどうなるか。不安に突き動かされてしゃにむに立ち上がり、近くにいた漁業組合のお偉方を捕まえて、私は上擦る声で叫ぶように尋ねた。

 ――灯台守は?

 咄嗟のことだが、そう言えば伝わるような気がした。実際、日焼け顔の老人は私の言葉に目を見開いた。彼女を知っているのか、と小さな黒い瞳が尋ねていたので、私は無言で小さく頷く。


「……あれのことは知らん。死にゃせんだろう」


 あまりに素気無い返答に、私は一瞬頭が真っ白になって、さあっと冷たいものが背筋を流れた。彼女の水を操る能力を知っていて、だから平気だと楽観視したのか? いや、そういう雰囲気ではない。

 その程度、この人にとって彼女はその程度の存在なのだ。彼の冷めた言葉には突き放すような気配がある。我々と違う身体を持つ、遠いどこかから辿り着いた異邦人は、彼らには招かれざる客なのだろう。

 私にはそれがひどく耐え難く、気づけば走り出していた。


 校舎を飛び出すと、外はちょうど夜が明けようとしているところだった。彼方の空が白くけぶって太陽に炙られ始めている、その真下に広がる海は、今や紺碧の魔物となって海辺の町を飲み込もうとしている――はずだった。

 波が、海岸線のところで蠢いているのが見えた。けれど濁流の牙は何かに堰き止められて地団駄を踏むように、上向いて渦巻くばかりで、それ以上中には入って来ない。それも防波堤よりずっと内側で。


 奇妙な景観にしばし放心した私は、その中央あたりに淡い虹色の煌めきを見つけ、そこに彼女が居ることを確信した。

 居ても立ってもいられず丘を駆け下り、朝焼けの町を駆け抜ける。一直線に光の許へ。危険を承知していたというより、それ以外のことが考えられなかったのだ。この激情的な性格でよく今まで生きていられたと自分でもたまに思う。


 心臓と肺が破れそうなほど痛み、最後は両脚をもつれさせながら、やっとのことで浜に降りた。

 やはり偏光の正体は彼女だ。ドロドロ人間の正体をあらわにし、半透明の両腕をどこまでも拡げて、全身で津波を抑え込んでいた。もう何分そうしているのだろう。水圧に押されてぶるぶる震え、いつ手足が千切れてもおかしくない。なぜそこまでして、……町を守ろうとしている?

 ほとんどの町民は彼女の存在すら知らない。数少ない認識者ですら異邦人がどうなろうと知らぬ存ぜぬという態度なのだ、なぜ彼らのために犠牲になる必要がある。もともと海の町としてある程度の被害は覚悟の上、あとは防波堤に任せて波が引くのを待てばいい。


 どうして、


「***、もういいよ!」


 私が堪らず叫ぶと、彼女はくにゃりと振り向いて、透明な顔を微かに歪ませた。濁り昂る海水のせいで表情は見えない。

 でも、わかる。笑っているのだと。まるで平気だと言わんばかりに。私を心配させまいとしているのか、それとも。


 それからどれくらい経ったのか、ようやく波が鎮まったのを見届けて、彼女は崩れ落ちた。



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