第29話 揃える

たぶれもいい加減にしやれよ、陰陽師」

 主殿の胴を目掛けて振り下ろされた重い剣を小枝一本でなして、少年が言う。

『この神気かみけが見えませんか。このようなものが現世にあれば、いずれ災いをなしましょう。それにこれをめっさばかならず幽冥の門は開かれます。たまの道への近道でもある』

「だから、手段を選べと言うておろうが!」

 少年らしい癇癪顔をして、声変わりもしておらぬ澄んだ声音、けれど腹の座った音吐おんとで判官殿が怒ってみせる。

『邪魔だてなさいますか? いまのわたくしならば、あなたを祓うことも出来る』

 判官殿はふん、と鼻で笑って手に持った小枝で私の腕を撃った。

 ただ一度、ただひと撫でのことであったのに、私は剣を取り落とした。

 腕がしびれている。

「ぬしなら容易たやすかろうよ、陰陽師。だが、ここで騒ぎ立ててどうする? 俺は鬼じゃが、ときおり人の精を掠め取っておるだけでろくに人を喰うておらん。鬼になったおりにはずいぶんなこともしたものだが、いまはもう、人の生で味わえなかった分、ただこの世を流れゆくままに楽しんでおるだけじゃ。こいつも似たようなものであろうよ。そんな鬼を祓うと言うか。ぬしはそこまで暇人か」

 私の足元に、主殿あるじどのの気配を感じた。

 足首に柔らかい羽先があたる。

 その感触に、胸の奥が温かくなる。

 身体が、すこし自由になった。

 ベンチに腰掛けて、足元の主殿の背を撫でる。

 しゅわしゅわと耳鳴りがしていた。陰陽師がなにごとか考えているのだ。

「それにな、この神気はこの男がおるかぎりはどうにもならん。のう? 鶏殿」

 くるくると主殿が鳴いた。

「人として生きておったころは些細なことに血を熱くすることもあった。しかし、我らはもう充分、気もれておるだろう。ここはひとつ、この男のために黙って魂の道を開いてやれ。なあ、陰陽師」

 私の手が、犬狼の毛の筆を掴んだ。

『――紙』

 私でない私がそう言うので、背嚢のなかから用足しのときに使う紙を取り出す。

 最近は巻いたものが多いが、私は平版のちり紙を愛用している。


 盤古ばんこ


 私の手が動いて、そう書いた。

 墨も含ませてはいないのに、紙には黒々とした墨跡が残る。

『鶏に、その紙を貼るべき時、貼るべき場所を選ばせなさい。それでそこが初源の地になる。あとはその場にあなたの持ち物を揃え、あなたの想う方を思えば、そこに魂の道は流れて来ましょう』


 ふと、身体が軽くなった。

 身体の自由が完全に戻っていた。

 陰陽師の気配はもうどこにも感じられない。どこかに散じたのだろう。彼の行くべきところへ。

 礼くらい、言わせて欲しかったと思うけれども、彼にしてみれば無用のことだろう。

 暇人、と言われてすくなからず気分を害しているようだったから。

「良かったな」

 なにか含むところがある顔をして、判官殿が私に笑みかけている。

「しかし、紙ぐらいもうすこしまともなものを持っておらんのか? 懐紙とかそういう、もうちょっと趣のあるのを。やつがいまどきの事情にうとくて幸いだったぞ。その紙、便所紙だと知れたら、たぶんもう一騒動あった気がする」

 私もそう思った。

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