第30話 貼紙
一年。
一年かけて主殿とふたりで「その場所」を探した。
山に登り、川を渡った。
海を見晴るかし、空を見上げた。
町を彷徨い、村を巡る。
一年……短くはなかったが、長くも感じられなかった。
それはこれまでのような当て
いつか逢えると思っていたあなたに、今夜逢えるのですね――
歌の
そうして私たちは気づけばもとの場所に……そう、私が生を受けた場所に帰っていた。
佐保川の流れを望む、その場所に。
かつて都のあった、その土地に。
夕暮れのときだった。
夏祭りなのだろう、遠くから祭り
「ここに戻ったのは、初めてですね」
背嚢から
田があり、人の住まいがあった。
我が君のお住まいであった名残は見受けられない。
避けていたつもりはなかったのだが、やはりこのようすを見るに忍びなくて、ここを避けていたのかもしれない。
しかしそれを言うなら
なにもかもが、うつりゆく。
人も、町も、権勢も、祈りのかたちも。
山河ですら、変容する。
生駒の山の下に広がっていた草香江はいつしか平野になり、人の力で大和の川は流れを変えた。
変わりゆくこと、終わりゆくことを、哀しむにはあたらない……のかもしれない。
それでも、哀しいと思うのは、私の人の心の部分だろうか。
鬼となって、長い歳月を生きて、あるがままを受け入れてきたつもりでも、やはり故郷が変わるのは哀しいか。
りん、とどこかで鈴が鳴った。
りん、りん、りん、と踏み締める足音のように、鈴が鳴る。
さわさわと風にそよぐ稲、しんしんと夏の熱気を震わす蝉の声、黄昏に沈みつつあるその青い稲の影の落ちる畦に、どこかへ向かう足が見えた。
胴は見えない。
――いつか見た、歩むもの。
私をなにかから守ってくれたもの。
「履柄守だね」
ずっと、ずっと考えていたのだ。
あの足は、彼ではないのか、と。
あの鈴は、私が吉野に落としていった魔除けの鈴ではなかったかと。
すう、と胴が
続いて、顔も。
顔をしわくちゃにして、ほろほろと涙を零しながら、履柄守がそこに立っていた。
履柄守と私は、ただ互いの存在を感じながら、並んで歩いていた。
道すがらの
そよぐ風が松の清涼な香りを運んできて、夏の暑さを和らげてくれる。
私の腕のなかで、履柄守のほうを見上げて主殿がくるくるとちいさく喉を鳴らしている。
ほかの者が見れば、鶏を腕に収めた私がひとりで歩んでいるように見えたろうが、それはどうでも良いことだった。
日はゆるゆると暮れてゆき、いつのまにか蝉の声は失せていた。
月の光が我らの背を照らしている。
田にはいつしか、
ひゃらひゃら、どんどん、かかか、どん、かかか、ひゃらひゃら、どんどん、かかか、どん、かかか
照明を集めた広場は明るかった。
村の広場のまんなかに櫓太鼓を据えて、男たちが太鼓を叩く。
笛を吹く者、歌う者。
そして、踊る者。
広場のまわりには金魚掬い、ネギ焼き、焼きそば、飴売り、かき氷、綿菓子、お面、輪投げなどの屋台が出て、ちらほらと人だかりになっているところもある。
浴衣姿の村の人々が団扇を手に、思い思いに踊っている。
宴の夜。
十六夜の月の光もまた、浮かれて明るい。
私は主殿と履柄守と三人で、広場の端、社の近くの照明のすくない場所に立って、櫓太鼓のようすを眺めていた。
村人たちのまわりで魂がくるくると踊っている。
村の人々ほとんどには見えてはいないだろうが、田も、野山も、川も、広場も、魂で満ちていた。
死人の魂も、生者の魂もない。
ともに踊り、
魂は、祖先の霊であるまえに、すべてのものの源なのだ。
寄せては返し、去っては
私の立っている場所の反対側、照明の届ききらない広場の端に、茨木殿の姿を見た気がした。
たくさんの人々に囲まれて笑いさざめいている。
祭り囃子の音に浮かれて、茨木殿のまわりからも魂がひとつ、ふたつ、みっつと流れ出て、くるくると盆踊りのなかに入っていく。
筆職人の男、二人連れの鬼、探せばどこかにいそうな気がする。
もしかしたら、陰陽師もどこぞに紛れ込んでいるかも知れない。
と、私の腕から飛び出して主殿が地に降りた。
嘴にくわえた紙を、降りたその場所に置く。
ただの薄い紙なのに、不思議に、その紙は地に貼り付いた。
ここなのか。
私はその紙のまえに、剣と、杯と、筆を置く。
電灯の灯りを呑むように夜が深くなった。
月の明かりも、すう、と闇に呑まれていく。
けれども、あたりは明るかった。
魂に充たされて、仄光っていた。
ここは――
ああ、そうか。
私があの女性と初めて出会った場所だ。
すべてのはじまりの地
――盤古
引用歌 万葉集より
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