第15話 なみなみ
源氏による平氏残党狩りの手が厳しい、どこにでも晒し首が転がっている……そんな噂を耳にして一年も経ったころ、玉浦で明け方、水の女と行き遭った。
波打ち際に倒れていたのだ。
どこもかしこも打ち身と擦り傷で酷いありさまだったが、なかでも無惨なのは足首を縄で結わえられており、おそらくは手首もそうだったのだろう、擦り傷が出来ていて青黒い痣になっているところだった。
そこにあったのはその娘だけではなかった。
娘のまわりには木切れや
ほかの者たちの骸も。
――昨日は
昨日の名残で今朝も風は強く、ひろびろと続く砂浜に打ち寄せる波は高い。
おおきく傾いた船が、遠くに漂着しているのが見える。
娘だけがかろうじてまだ息がある。
どうしようか逡巡し、結局、背に負うた主殿がくるくると鳴くので、あまり気は進まなかったがしばらく仮宿していた海辺の小屋に運んで介抱することにした。
小屋は板葺きだが傾きかけていて、昨夜など雨漏りが酷かった。漁師の道具小屋か、あるいは世捨て人が寄宿していたものか。
広さは四畳ほどのなにもない小屋である。
いずれにせよ、使われなくなって久しい。
娘を連れてくるのに気が進まなかったのには、わけがある。
――そろそろ人が喰いたくなるころだ。
物憂い気怠さがまとわりついていた。旅を中断して小屋で休んでいたのはこのせいもある。
人を喰わずとも、
人を喰うのは、いまだに慣れない。
夜になって、浜辺におりて骸の肝を喰おうとしてやはり思い切れなかった。
昼のうちに近隣の村の者が拾っていったのだろう。めぼしいものはあらかた無くなり、死人の衣類も剥ぎ取られたあとだ。
代わりに、波打ち際からすこし離れたところまで骸を運ぶ。
私にできるせめてものことだ。
今風の供養の
仏教のことは、この永い旅に出るまえにも、聞きかじったことがある。
が、それが葬送のためのものだというのが、どうにもしっくりこない。
(沖の波が打ち寄せる荒磯を枕に、寝ている君であることよ)
歌を手向け、詞に宿るちからで、死者を送るのが習わしだった。
詞と、声のちから。
地霊を
わずかでも浜の彼らの旅路が安らかならんことを祈っている。
小屋に戻ると娘が目を覚ましていた
「生き残ってしまいました」
だれに聞かせるふうでもなく、娘が言った。
「嵐の夜、人身御供をせんと、海に沈められました」
滋養のある干し肉と菜を煮たものを差し出すと、黙って口運ぶ。
「船の者がみなかは分からないが、この浜に流れ着いた者は、汝以外、死んでいたよ」
私がそう言うと、
「因果応報であること」
娘はそう呟き、はらはらと泣いた。
翌朝、私が目を覚ますと娘はいなくなっていた。
あまり近くにいるとどうにも喰いたくなって仕方が無かったので、すこしほっとする。
浜には村人が出ていて、昨日の続きで流れ着いたものを拾い集めたり、亡くなった者のために墓を掘ったりしている。
そこにも娘の姿はなかった。
私は月の満ちるのを待たず、旅を再開することにした。
とはいえ、まっさきにやることは、山に入って獣を狩ることなのだが。
*
つねのように旅し、しかし犬狼と旅する女の消息にはなかなか巡り会わずに、玉浦に立ち寄る。浜で娘を助けてから、三十年が経っていた。
夜半のことだ。
同じ場所を通りがかった私が見たのは、あの
小屋の片隅には髑髏が山と積まれている。
このあたりで人喰いの話は聞かなかったが、という思索を引き裂く、
「あのとき、
命ばかりは助かって、なにもかもを思い切ろうとして、思い切れなかったのだという。
波音の絶えない小屋で、鬼が泣く。
「ええ、理不尽なことと分かっております。けれど、妾は――」
不意に、逆巻く渦が見えた。
――命ばかりは助けると言うたではありませぬか。ゆえに妾はおまえさまたちみなの慰みものとなるのも耐えたものを。
――忘れたな。高貴な女も、最初は物珍しかったがもう厭いた。平家を匿っていると知れれば面倒だ。ここがおまえの良い使い処よ。
女の涙に誘われたかのように、小屋になみなみと水が満ち、女の髪が、衣が、逆巻く波に巻かれて水底へ落ちてゆく。
危ない、と履柄守の剣に手をやったときには遅かった。
女の手が私に伸び、鋭い爪が肩に食い込む。
尼削ぎの髪がするすると伸びて私の四肢を絡めとった。
――どうぞ、一緒に――
時を告げる鶏の一声
瞬きひとつで、女の姿が消え失せた。髑髏も消えた。
そもそも小屋そのものが見当たらなかった。わずかに土台の柱を残して、もうとうの昔に跡形もなくなっていた。
水平線に曙光の、最初の矢が放たれていた。
「助けてくださってありがとうございます、主殿」
背に負う行李のなかで、まだすこし眠たげにくるくると鳴きながら、羽掻きする主殿に礼を言う。
主殿の『詞』には、ちからがある。
かつて、地霊を言祝ぎ、天に届かしめ、生者の魂を振るわせ、死者を慰めていた、歌とおなじちからが。
彼女は祓われたのではない。逝くべきところへ導かれたのだ。
――最後にみた
主殿に、とっておきの米をすこし食べてもらおうと腰の袋に手を伸ばしたとき、肩がずきりと痛む。
あとでここに橘の木を植えよう。
そう思った。
けれど、あの静かに香る木が、彼女にはふさわしいように思えたのだ。
引用歌:万葉集より
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