第14話 幽暗

 棚機たなばたから盆にかけて、あらゆる境界は曖昧になる。

 たとえば川。

 あるいは波打ち際。

 山裾の緑は濃く陰を孕み、村の境には影なき者がきざす。

 境界のものは忌まれているのではない。

 生者は魂離たまがれによって自身の活力が失せるのをおそれ、毎年、自身のちからを補うべく、異界からたまを寄せる。

 棚機津女たなばたつめは川辺で機を織り、客人まろうどを招き寄せる。

 水より出で来た魂は、あるものは稲に憑き、稲はその活力を得て穂を出し、実る。

 人は実りの秋に作物に憑いた魂を食しておのれの魂離れを防ぐのだ。

 そうやって充分に魂が憑いたころ、ひとはあまりの魂を魂送たまおくりして異界に還す。

 還しきれず、ものに憑かぬ魂が現世に残れば、たとえば稲に害なす虫に成る。

 招いたものを精霊しょうろうとして川に流し、あるいは虫送りなどして、また次の歳に呼ぶ。

 寄せては返す波のように、根の国、妣國ははのくにより還り来てまた送られてゆく魂。

 この国では、古きよりずっとそうして命を育んできた。


 旅の途中、峠で日が暮れてしまい、橘の木の根元で一夜を明かすことにした。

 幸いにして満天の星空で、雨の心配はない。

 焚き火をし、包みを解いて主殿あるじどのを放す。夜は眠っていらっしゃるが、朝になれば虫なり草の種なりをついばむことだろう。

 行李こうりからきぬを取り出してくるまって目を閉じる。

 とおくから、りん、りん、りんと、鈴の音がする。

 こちらへ向かってくるように聞こえながらも、いっこうに近くならないその鈴の音。

 うとうととしていると、凜、と、ひときわおおきく音がして

「よろしいか」

 と、囁く声があった。

 夜の沼に浮かぶ水泡みなわのような呟き。

 どこかで聞いたことがある……けれども思い出せない声だった。

 焚き火のまえに、足が二本、立っていた。

 胴よりうえは見えない。

 そういう『もの』なのだな、と思った。

 今夜は棚機をすこしすぎたあたり。呼ばれてゆく途中なのだな、と。

 主殿はくるくるとときおり喉を鳴らして眠っている。

 ならば眼前のたまは悪い『もの』ではないのだろう。

「どうぞ」

 承諾すると足は膝を折って胡座をかいた。

 焚き火はもはや埋み火で、灯りの用はなしていない。

 けれども藺草いぐさ脛巾はばきに土埃に汚れた白足袋、藁草履、足の輪郭はくっきりと見える。

 胴より先がやはり見えない。

 鈴はみ、ざ、ざ、と途を歩くものたちの足音が聞こえる。

 どこかちかくに、根の国とこちらを繋ぐ道があるらしい。

 ざ、ざ、ざ、ざ、ざ

 囁きを交わすこともなく、無言で旅するモノたちの足音。

 ひた、ひた、ひた

 不意に、違う足音が混じった。

 ――犬の足音だ。

 私は身を起こそうとした。異界の犬。あの女の犬狼ではないのか。

「いけません」

 と、かすれた声が耳朶を打った。

 とたんに身体が動かなくなる。

 ざ、ざ、ざ、ざ、ざ

 ひた、ひた、ひた、ひた、ひた

 耳を澄まし、足音のするほうに目を凝らす。

 けれど、視界は幽暗に閉ざされるばかり――

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