銀のフルート

「話してなかったですね。ここは先生の家なんですよ。で、先生はshowというプロのフルート奏者で、今はヨーロッパで演奏会をしています」

 福岡ふくおかくんは棚から一枚のCDを持ってきた。それを受け取った私は、思わず「あ」と声を漏らす。

「このCD……一回音楽をやめようと思った時、夏希なつきが持ってきてくれた奴だ。これを聴いて、音楽の道に戻ってきたんだよね」

『え? ほんと? マジ? 嬉しいことを言ってくれるなぁ! じゃあ、俺、明日帰るわ。しほりちゃんに会いに』

 初めて会話する相手に、もう下の名前で呼ばれてる。私より年上だし、まあ、いいか。

「いや、あんた今ヨーロッパでしょ」

 冷めた言い方をする福岡ふくおかくん。

『ファンを大事にする。これ、俺の信条』

「初めて聞いた」

 半眼から冷ややかな視線。その声も酷く冷めている。

 本当にshow先生は初めて言ったんだろうなと、福岡ふくおかくんの様子を見てよくわかった。

 彼はお茶を一口飲んだ。

『ぁあ? それはそうが知らなかっただけだろ?』

「もういい。くだらん話をする暇はない。楽器の件だけど、俺の貸すから」

『は? 急になんだよ。ついさっきまで俺の貸』

 福岡ふくおかくんは、ポチッと画面をタッチする。電話を切ったようだ。show先生の言葉が途切れた。

 そして、今まで見たことがないような長い溜息をついていた。

 いつも私の前では、私よりも大人っぽくて、冷静に行動していた。

 でもshow先生の前では、年相応のちょっぴり子どもっぽいところというか、崩れた感じのある一面を見て、なんだか安心した。思わず口元が綻ぶ。

「show先生、優しい人だね」

「鬱陶しいだけですよ」

「あ、お茶をどうぞ」彼に促され、一口飲む。気づかないうちに喉が渇いていたようで、飲み込んだ瞬間、体に冷たいものが染み渡るのを感じた。

「おいし」

 露のついたグラス。てのひらが僅かに濡れて、それすらも心地良い。

「なにか食べます? カップ麺くらいなら作れますけど。この家で練習する時、いつもキュウリだけとか単品で済ましちゃうんで、料理が作れるほど買い込んでないんですよね」

 口を手で覆いながら、恥ずかしそうに失笑する彼に、私は微笑む。

「晩御飯、まだ食べてないからいただこうかな」

「俺は好きですけど、深夜のカップ麺とか女性的にどうなんです? もし嫌だったら、俺がコンビニまで買いに行きますよ」

「いいよいいよ。気にしないで! それに私もカップ麺好きだよ! 深夜にカップ麺を食べる背徳感はあるけど、妙に美味しいよね」

 誰かと一緒に食べる食事。

 こんな穏やかな気持ちで食べるのは、いつぶりだろうか。

 ここなら、突然、奈良栄ならさか先輩が来ることはない。



   ■ ■ ■



 食べ終わったカップ麺のゴミを片付けた。

 つい先程まで食卓として使っていたテーブルの上に、楽器ケースが並んでいく。

 楽器を壊された私に貸してくれるという話だが、楽器が並ぶ様は楽器店や学校の吹奏楽部でしか見たことがない。出てくるフルートの数に驚きながら、福岡ふくおかくんは更に楽器ケースを棚から運んできた。

「一通り揃ってはいるんですけど、どのメーカーが良いとかあります?」

 一体、何本持ってるんだろうと、出てくる度に怖くなる。私なんてお金がないから、一本しか楽器を持ってないのに。

「今はムラアツを吹いてるから、できたら同じのがいいかな」

「ムラアツは人気ですよね。じゃあ、SRモデルとかどうですか?」

 ムラアツ以外のフルートを遠くに離し、三本の楽器を手前に持ってくる。金のフルートが一本、銀のフルートが二本だ。

「PTPモデル、プラチナもありますけど、コンサートの本番は近かったですよね?」

「うん、二十二日だよ」

「本番が明後日か……総銀製よりプラチナは重いから、体が慣れる前に本番になっちゃいますね。重さに慣れてないと、すぐに疲れるからプラチナはやめちゃいましょうか」

 そう言って、一本の銀のフルートが片付けられる。

「いっぱい楽器出てくるけど、やっぱりムラアツ以外にもあるの?」

「はい。俺はアルトスのPSを使ってますよ」

「アルトスかー。私が学生の頃は、まだ歴史が浅かったから、あまり楽器が良くないって噂があったんだよね。だから使うのが怖くって」

「今はもう違いますよ。いろんなプロの演奏家も使われてるメーカーですし」

「じゃあ、show先生も?」

「あの人もアルトスですね。演奏するホールや、ソロかアンサンブルかで、素材が異なるアルトスを使い分けてるみたいです。あの人、変人なんで」

「変人……まあ、確かに普通、細かく使い分けたりしないよね」

「それにあの人、金だけは持ってるから、なにかと自慢したいんですよ」

「うん、この楽器の多さを見ていると、お金持ちなんだろうなとは思いました。でもさ、福岡ふくおかくんも凄いよ。アルトスのPSモデル? て、高いでしょ?」

「あー、百万……超えてた、かな? でも、俺のは大概先生のお下がりですから」

「ひゃ……百万円……」驚愕きょうがくの値段に、目眩を覚える。

 流石プロの演奏家。

 教え子にお下がりですか。いや、あり得ない話ではないんだけど。どれくらいの値段で譲ってもらったのだろうか。

 あと、その金額に釣り合うモデルを使ってるってことは、彼はそれなりの実力の持ち主ということ。それに福岡ふくおかくんの親指のタコを見て、ぼんやりとは予想がついていた。

 ムラアツ以外のメーカーのことはよくわからないが、出されている楽器を見ると、決して悪くないことだけはわかる。あまりにも安いフルートは、見た目がとてもシンプルなのだ。

「ムラアツのSRはリングキィのインラインしか持ってないですが、大丈夫ですか?」

「それは問題ないよ。今の楽器もそうだし」

 リングキィは、リコーダーと同様で、キィに穴が開いており、指で塞ぐ。

 インラインは、主管にあるキィが真っ直ぐに配置されている。

 どちらとも指が短い人だと、なかなか難しい。穴が塞ぎきれない音は出ないし、キィに指が届かないと違う音が出たり、音が出なかったりする。初心者にはあまり向かない。

 一方、無駄な抵抗が少ない為、音色と音程が安定しやすいという利点もある。だから、プロの演奏者はリングキィのインラインを使う人が多いのだ。

 音色にも変化があるというのだから、楽器とは奥深い。

「SRで大丈夫か、少し吹いてもらっても良いですか? 防音室なんで気にせずに吹いても構いませんよ」

「うん、わかった」

 彼が組み立てた楽器を受け取り、頭部管のリッププレートに唇を乗せる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る