初めてのレッスン室
アパートの部屋がかなり綺麗になった。ひび割れた皿、欠けたコップも捨て、ゴミ袋の口を縛る。
凹んだ壁や床や傷ついた家具は、今は放置するしかないから、思ったよりやることはなかった。
ただ、
過去の傷を見ると、フラッシュバックは起こりやすい。私の為に考えてくれる彼の背中を見て、感謝の言葉しか出なかった。
そんな私達は、ある家の前まで来た。来てしまった。
しっかりと煉瓦で舗装された道路。等間隔に設置された街路灯で見えるのは、白っぽい壁の大きな家。庭はないようだが、代わりに家を囲むように並ぶ木々と、三台の車が駐車できるスペースがあった。
この家に、学校に突撃してきたあのお母さんもいると思うと、緊張以外に恐怖心も芽生える。
なんて挨拶しようか。どんなふうに接したら良いか。そもそもこんな深夜に、大事な息子さんを呼び出してしまったことを謝罪しなければならない。
ああ、胃が痛い。
そんなことを思っていると、人の動きを感知して自動的に玄関前が明るくなり、
私の実家は鍵を鍵穴に差し込むタイプだったし、自動で明かりもつかない。実家よりハイテクな家だ。
ぼけっと感心していると、彼が玄関で靴を脱いだところで、我に返る。
「?
「まっ」
まだ心の準備ができてないのに!
思わず、そう口から出そうになる言葉を飲み込んだ。
「奥の部屋に入っててください」
「ひゃ、ひゃい!」
緊張が高まり、声がひっくり返る。
ポツンと取り残される私。
周りを見渡す私。
「……玄関、広くて羨ましい」
レジャーシートを敷いてお弁当を食べることができそうな広さ。傘立てと靴箱しかない、特に飾り気のない玄関。
仕事に熱心なお母さんらしいから、写真立てとか家族に関する物を飾ったりしないのかな。
「お邪魔しまぁす」
慣れない家の匂いに落ち着かない。だが、お邪魔する限りは、きちんと挨拶をしなければならない。
脱いだ靴を揃える。
「あれ? 靴が少ない」
玄関に並ぶ靴は、私と福岡くんが履いていたサンダルくらい。お母さんの靴はどこだろう。そういえば明かりが点いていなかった。もしかして、たまたまお出かけをしているのだろうか。
他の家族はどうなんだろうと思いながら、奥の部屋に進んだ。
トイレはあそこかなぁと思いながら歩みを進める。そして辿り着いた一番奥の部屋。そのドアノブに手を掛けて押す。
「ん?」
重い……?
違和感を覚えながら、ゆっくりとドアを開けた。
「わあ、凄い!」
複数の部屋をぶち抜いたような……音楽室のように広い部屋だった。
休憩できるソファとテーブル。
その長方形のテーブル上には、飲みかけのペットボトルと、コンビニのおにぎりのゴミが散らかっていた。少し前まで人がいたように。
部屋の隅には、楽譜が置かれている譜面台と、クリスタルのグランドピアノ。
「初めて見る……! 透明なピアノ!」
ドアを閉めた時、遠くから聴こえていた福岡くんの話し声が、ピタリと聴こえなくなった。
「あ〜、そういうことか」
ここ、防音室だ。
だからドアを開ける時、空気の逃げ場がなくて重かったのかと納得する。
「てことは、ここはレッスン室……? でも、どうして
壁側には沢山の棚があり、最も近くにある棚に近づいた。
そこにはフルートの教則本、曲の本が綺麗に並べられていた。
他の棚はフルートの清掃に使うクロスや、研磨剤の入っていないクリーナー、キィの動きをよくするオイル、抜き差し部に塗るスライドグリスのスティックタイプ、キィの裏側にあるタンポに溜まる水を吸い取るクリーニングペーパーも沢山置かれていた。
まるで楽器店に来ているような気分で、テンションが上がる。
「わあぁぁぁぁ! クロスの種類がたくさん……! マイクロファイバーのクロスとか見たことない。なにこれ、ガーゼにも種類があるんだ……ひぇっ! たった一枚で千円弱……」
包装に貼られていた
一目でどこになにがあるのかわかるように表示されていて探しやすい。容器ごとに整理整頓されているのを見ると、使用者の性格がよくわかる。
一番気になっていた棚に行くと、そこには楽器ケースが並べられていた。その数は一本、二本どころではない。いろんなメーカーのモデルが並んでいる。
カタログでしか見たことのないモデルに目が釘付けになっていると、ドアが急に開いた。
「楽器は後で選びましょ」
意識が楽器に向いていた分、急に話しかけられて、飛び上がるようにびっくりする。
「ひゃい! 後で選びます!」
と、声を裏返しながら振り返ると、彼は肩と耳でスマートフォンを挟んでいた。
「おっと」彼は落ちそうになったスマートフォンを慌てて持つ。もう一方の手には器用にお茶の入ったグラスを二つ持っていた。
「てわけで、先生。今日と明日、泊まるから」
先生?
不意に耳に飛び込んでくる言葉。
足でドアを閉めようとする彼を慌てて止めて、私がドアを閉めた。
「ありがとうございます」通話中だというのに、彼は律儀にお礼を言ってくれた。
彼は、徐にスマートフォンを操作し、相手の声がスピーカーから流れるようにすると、テーブルにグラスと共に置く。置いてあったゴミは、適当にゴミ箱に入れていた。
『いつものことだから別に良いけど、一人で泊まるんか?』
そこから流れる男性の声。相手は
この男性に許可を取ってるということは、この電話の相手が家主ということなのだろうか。
「いや、もう一人いる」
『もしかして、さっきから、ちょいちょい話してる女の子⁉︎』
いかにも、からかうような声色での返事。
あからさまな反応に鬱陶しさを感じたのか、少し苛立ったように
「ああ、そうだよ」
『まさか
「違う。
知らない女性の名前。
『
恋愛話が好きなのか、興奮したように話す男性に、心底鬱陶しいと言わんばかりに溜息を吐いていた。返事をするのも嫌そうだ。
『その反応は年上なんだろ? 合ってる?』
「うるさい」
怒っている表情だけを見ていると、ヤンキーのように見える。
こんな顔もするんだなと感心していると、
「あの、すみません。私、
そう自己紹介すると、とても驚いたように相手の男性は声が上ずっていた。
『はい? はいぃぃ⁉︎ は、はじめまして、
「うん、してる」
『お前、スピーカーにしてるならそう言えよ! 恥ずかしいだろ!』
「知らない。そもそも探ってくるクソジジイが悪い」
微笑ましい。
『先生に対してなんっつー言葉を……! そんなふうに育てた覚えはないぞ!』
「育てられた覚えがない」
ノリの良い
のほほんと、そんなことを考える。
「で、さっきも話した楽器の話なんだけど」
『showさーん。本番十分前なので、そろそろ舞台袖にお願いします』
若い女性の声。
それよりも、
「ショー?」
誰だっけ。どこかで聞いたことがあるような。
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