第33話 外道(中編)

 あの時の事を、千次はよく覚えている。


 天気は快晴。太陽が照りつける夏の日、高校の中庭であった出来事だった。

 その時の千次は、少し前を歩く男子生徒が飲み終わった空き缶を花壇に捨てたのを見た。そして「丁度いい」と思い、それを拾って落とし主に投げ返してやったのだ。

 速度もコントロールも文句なしの速球は目標の背中に当たり、苦痛の悲鳴をあげさせた。彼は文句を言いたそうな顔で振り返ったが、一睨みすれば怯えた様子で逃げていった。


 こんなのは、ただのちょっとした憂さ晴らしだった。

 そう、千次は暑さにムシャクシャしていただけなのだ。


「ほっほーう。なかなか見所ある男だな。うん、体つきもガッシリしてて頼りになりそうだ」

「あん? 誰だ、お前?」


 少しは解消したといっても、まだ蒸し暑さにイライラしていた千次。だから突然聞こえてきた失礼な声の主を睨み、低い声で凄んだ。

 だが相手は恐ろしい顔の千次にも物怖じしなかった。それどころか、ジロジロと無遠慮に眺め回してきたのだ。

 その人物は中性的な見た目の女子だった。快活な雰囲気にショートカットと夏服がよく似合っている。

 そんな謎の女は堂々と胸を張り、爽やかな笑顔で言ってきた。


「あたしはおまえをスカウトに来た! その恵まれた体、無駄にするだけなんて勿体ない! あたしの所で活かしてみないか!」

「お断りだ。爽やかにスポーツなんて俺の柄じゃねぇんだよ。他の奴を誘いな」

「あ、それは違う。勘違いだ」


 さっさと話を打ち切り、去ろうとした千次だが、思わぬ否定を受けて怪訝な目つきで女を見返した。


 その口が発したのは、完全に予想外の言葉だった。


「あたしの部は園芸部だぞ?」

「……は?」

「好きなんだろう? 花壇」

「はああ!?」


 女は悪戯っぽい笑顔で手を伸ばし、不本意な評価を下された千次は間抜け顔で叫ぶ。


 これが、千次と彼女との出会い。

 もう戻ってこない幸せな日々の、その始まりの瞬間だった。






「どうしたどうした、大当たりィ!? 手前テメエは俺を殺したいんじゃねェのかッ!?」


 殺人者――枯村こむら軍毅ぐんきが挑発的な言葉と共に鉈めいた鋭利な刃を放ってきた。容赦なく首筋を狙う、殺意を持った暴力。

 千次はそれから逃れるべく、必死に動く。

 地面をブーツがこすり、そして金属音。刃同士がぶつかり火花が飛ぶ。

 千次は逆手に持った右のナイフを盾に防いでいた。

 だがそこで相手の武器は止まらない。手首を曲げて反対側まで振り抜き、ナイフから離した。そこから一度目の勢いを殺さぬまま、別方向からもう一度襲ってくる。

 千次はもう一度防ごうと剣筋を注視。していたのだが、腹部に生じた痛みに注意が削がれてしまった。

 その原因は軍毅による左の拳。

 意識外からの奇襲は、刃物だけが武器ではないぞ、との厳しい忠告のようだった。


 痛かろうと悔しかろうと、ここで止まってはいけない。

 防御を諦めた千次は無様に転ぶように後退。なんとか避けはしたものの、肩口が浅く裂けている。

 それは一体何番目の傷だっただろうか。千次は既にあちこち裂傷だらけだった。


 復讐を誓った青年はそれを果たすのに苦戦していた。

 初めからずっと防御一辺倒。

 相手の攻めを受けるばかりで、効果的なダメージを与えられずにいた。それどころかギリギリで生き残っている状態だった。


 軍毅が相当な実力者だというのもあるが、それだけではない。

 殺人鬼の底知れぬ狂気に気圧されていたのだ。

 鍛えあげたはずの腕が鈍くなっている。動作の判断も最善とは言い難い。

 芽生えてしまった恐怖による、不調。

 決して復讐心が衰えた訳ではない。彼女を奪われた憎しみは今も燃え盛っている。

 それでも、それだけで覆らないのが戦いだった。


「ホラホラ、休んでんじゃねェぞナマケモノ!」


 未だ調子が整えきれていない千次を煽るように嘲笑を響かせ、軍毅は猛攻を仕掛けてくる。

 矢継ぎ早に凶刃が振るわれ、それが止まる時間は無い。荒々しくも淀みなく、激流のように圧倒する。

 千次は必死に後退して避けるのがやっとの有り様。だがそれもすぐに限界が来る。


 逃れられない間合いで、胸部を真っ二つにするような横薙ぎを繰り出された。

 ひとまず千次はその場にしゃがみ、殺意を避ける。頭の上を通過する刃にゾッとしつつ、劣勢を打開する機会を窺う。

 その直後にこの選択を後悔した。

 視界一面を覆っていく、革の質感によって。膝蹴りだった。


「がっ!」


 顔面を強烈に打ちすえられ、激しく転倒。

 受け身は一応とったが、不十分だった。体のあちこちを痛め、体勢を立て直すまでに無駄な時間を使ってしまう。


 しかしその格好の隙に、殺人鬼は仕掛けてこなかった。

 不審に思い様子を窺うと、彼から凶気的な笑みは消えていた。代わりにあるの表情が示すのは、心からの落胆。


「ガッカリだ。当たりなのは行動力だけで、肝心な戦闘コッチの方は外れだったみてェだな。俺の鼻も衰えちまったらしい」


 軍毅はこれ見よがしに深々とため息を吐き、好き勝手な事を言ってきた。

 本気の言葉にも思えるが、「楽しむ」為の挑発だろう。

 折角復讐に駆り立てたんだから期待を裏切るな。そう言っているのだ。


 ――ナメやがって。この外道が。


 千次の折れかけた心に、薪がくべられ勢いよく燃え上がる。全身に熱い活力がみなぎっていく。

 そうだ。今更怖じ気づくな。

 相手は簡単に人の命を奪う狂人で、千次はそいつの命を奪うと決めたのだ。


 その為にまず、心の熱とは反対に冷静になれと言い聞かせた。

 このままでは勝てない。相手の攻撃のパターンを思い出し、効果的な攻め手を考える。

 勝つ為に。確実に復讐を果たす為に。


「つっ立ったままでどうした? いよいよ本番かと思ったんだが、ポーズだけか?」


 軍毅は待ち飽きたとでも言いたげに挑発してきた。

 それに千次は乗ってやらない。あくまで頭を冷やし、反撃の手を練る事を優先する。例え、何を言われようとも。


 だがその固いはずの決意はアッサリと揺るがされる事となる。


「ま、仕方ねェか。しょうもねェ小悪党の身内だ。期待する方が間違いってこったな」

「……小悪党?」

「ん? 何が不思議なんだ? 手前の女はそうだったんだろ?」


 悪党が何を言うのか。

 再び憤怒の炎が千次の瞳に灯る。冷静さなど、遥か彼方へ吹っ飛んでしまった。


「お前がアイツの何を知ってるってんだ!?」


 周辺一帯を揺るがす激しい感情。

 世界さえも怒りに怯えたように、怒号が消えた後には静かな空間が残る。

 その静寂を汚す、耳障りな音。小さく、しかしハッキリと、悪意を持ったせせら笑いが聞こえてくる。


「俺じゃねェ。手前だろう? 言ったのは」

「何の、話だっ!」

「俺はさっき、俺と殺し合いすんのは『彼女が望んでるから』だって、そう聞いたんだが?」

「それが、どうした……っ!」

「やれやれ、知らねェのか。常識の無い野郎だ。仕方ねェから教えてやろう」


 軍毅は肩をすくめてため息を吐くと、子供に優しく教えるような口調になって――それを言った。


「手前で手を汚さなくてもな……他人にヒトゴロシを頼むってのは、それだけでワルいことなんだぜ?」

「……っ!」


 相手の言い分を理解した瞬間、千次の全てが一気に冷えた。

 それこそ、あれほど激しかった怒りをかき消す程に。


 彼女が望んでる。


 確かに千次はそう言った。

 それはそうだろう。被害者が犯人に抱くものとして当然の思いだろうから。

 だが、それが彼女を、罪人にしてしまうのか。


 違う。決して頼まれた訳じゃない。そもそも原因はお前だろうが。ただの詭弁だ。

 そう言いたかった。否定したかった。認めたくなかった。


 なのに、それが出来ない。

 千次は青ざめた顔で沈黙するばかり。力が抜けていくのを感じていた。


 そんなところに、軍毅は更なる一手を繰り出してくる。


「まあ? コロシの責任を死人に押し付けるような小悪党にゃあ、お似合いなんじゃねェか!?」


 責任を、彼女に押し付ける?

 違う。違う違う違う。

 そんなつもりじゃなかった。彼女の名を借りたのは、無念を思い知らせたかったからだ。


 しかし、やはり否定の言葉は出てこない。

 動揺し、ふらつき、脳内を巡る言い訳に苦しみー


 そして、消え入るような声で千次は呟く。


「ああ……そうだな……」


 本当は分かっていた。

 過去を遡れば分かる。彼女は最初から敵討ちなど望んでいなかった。そんな人間ではなかった。聞こえなかった最期の言葉だって「仇を討ってほしい」なんて内容ではないはずだ。

 分かっていたのに目を逸らしていたからこそ、相手の言葉を簡単に受け入れ、動揺したのだ。


 責任と覚悟から逃げ、勝手に騙って彼女を侮辱し、名誉を汚していたのは俺の方か。

 千次は愕然と膝をつく。


 ならば、どうすればいい?

 望まれぬ復讐は止めればいいのか。

 奴への憎悪は抱えたままにするべきなのか。

 自分がどうしたいか。改めて考える。


 思い起こされるのは、腕の中で最期の言葉を残そうとした鎧姿の彼女と、腕の中の冷たくなった私服姿の彼女。

 後悔と無念と悲愴に彩られた記憶。


 そのおかげでハッキリした。


「悪い……」


 千次はゆっくりと立ち上がると、悲しげな、悔いているような声色で言った。

 それから怒りや動揺の抜け落ちた顔で前を向く。


 彼は、彼女が残した最期の思いを――


「奴の死を望んでるのは俺だけだった」


 ――踏みにじる。


『外道が。地獄に落ちろ』


 これは確かに温かった。

 これでは他力本願ではないか。


 千次は静かに、重く、声を発する。質量を持った闇のような一言を。


「お前は」


 これは復讐ではない。

 単なる八つ当たりで、無意味な憂さ晴らしで、忌むべき悪の行動だ。

 だから、彼女には関係が無い。爽やかな笑顔が似合う、元気が取り柄の、草花が好きな彼女に、人殺しと関係なんてあるはずがない。


「俺が」


 だからこそ。

 それを望む、千次自身が千次自身の言葉で宣言する。


 彼女は当然小悪党ではないし、千次も違う。

 ここにいるのは、外道が二人。


「殺す」


 一文字一文字に意思を乗せ、淡々と言い終えた。

 熱かった千次の体は今や嘘のように冷たい。既に彼の内部を満たしているのは復讐心ではなく、大義なき殺意だった。


 静かに睨む千次とは対照的に、もう一人の外道は声高らかに笑い出す。実に楽しそうな、狂気と悪意が入り混じった趣味の悪い笑顔で。


「いいねェ、いいねェ、その顔だッ! やりゃあできんじゃねェか、なあ大当たりィ!」


 狂人が言う、「その顔」。

 鏡も、その代わりになるような物も無い魔界では確認する事は出来ない。


 それでも千次は、己がどんな顔をしているかを正確に察してしまった。

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