第25話 楽天家(後編)

 静かな美術室に、鉛筆の音が響かない。


 ボクのため息が壁にぶつかって虚しく返ってくるだけで、鉛筆は宙に揺れるばかり。描きかけの絵は描きかけのまま。今日の部活の時間も終わってしまったのに、始まった時点からほとんど変わってない。

 というよりも、ここ数日は石膏デッサンがまるで進んでいなかった。


 原因は先日の天音さんとの一件。

 どうしても気が散って、考えこんでしまう。


 絵のモデルを断られた事も嫌いだと言われた事も、そこまでショックじゃなかった。

 やっぱり、天音さんがまだ苦しんでいた事。それと、ずっとそれを知らず能天気に接してしまっていた事。これがかなりショックだった。


 しかも天音さんの方は大した事だと思っていない節があった。

 次の日会うと、普通に話しかけてきたから。何もなかったかのように、冷たいけど最近の調子で、だ。

 それが逆に、天音さんとの間にある果てしない距離を証明していた。本心を隠して、うわべだけで会話していると知ってしまったから。

 今日まで謝ったりあの時の絵を見せたりしてきたけど、溝は全然埋まらなかった。今日もなんとか元気づけようと思っていたのに、ろくに話も聞いてくれずにさっさと帰ってしまった。


 せっかく仲良くなれたと思っていたのに。

 せっかく明るくなってきたと思っていたのに。

 それは表面だけで、内面には深い絶望があった。あんな苦しそうな姿は見たくなかった。


 ボクが嫌いなら嫌いでもいい。絵のモデルもやらなくていい。

 でも、やっぱり笑っていて欲しかった。いつ死んでもいい、なんて考えを止めてほしかった。

 だけど、ボクが何か言っても、余計苦しめてしまうんだろうか。だったら本人に任せるしかないのだろうか。


 ボクは、どうしたらいいんだろう?


「ヘイ、ジョニー。ボクに女心を教えておくれよ。ステキな恋人のいる君なら分かるだろう?」


 室内に生まれたのは、とても弱々しい声。いつの間にやらボクはジョニーに助けを求めていた。

 無意味な独り言なのは解ってる。

 一人で解決するのが少し無理そうだったから、つい弱気になって出てきたものだ。


 静かな美術室は、相も変わらずに静かだった。


「ハハハッ! いいとも、それくらいお安いご用さ!」


 と、思っていたら思わぬ反応が返ってきた。答えなんて、本気で期待してはなかったのに。

 ボクは驚いて反射的に立ち上がり、大声をあげる。


「えっ!? この声は…………部長の裏声!?」

「な、なははあぃぃっ!? い一体何の事だね!?」


 すると今度は慌ててひっくり返った声が返ってきた。驚いたのはあちらも同じみたいだ。

 気にせずボクは声が聞こえてきた場所、つまりは石膏像(ピエール)の裏にあったスペースを覗き込む。


「あれ、部長。こんなところに隠れて何やってるんですか? というか、いつ入ってきたんですか? 戻ったんなら声かけて下さいよ」

「待て待て待て待てえ! こういう時最低でもノリツッコミしてくれるのが筋ってもんだろうが!」

「え? 部長。こういう時ってどういう時なんですか? 早く帰らないと先生に怒られますよ?」

「えあぁぁい、こなっくそぉーい!!」


 部長が女子らしくない言葉遣いの叫びとともに勢いよく立ち上がった。

 それから指をビシッとボクにつきつけてくる。


「折角お前に合わせてやったってのに、なんっなんだこの仕打ちはぁ!? 貴様それでも我が美術部の人間かあ!?」

「はい、そうですよ?」


 部長は三つ編みお下げを振り乱し、眼鏡を暴れさせながら大声を張り上げている。相変わらず見た目と言動が合わない。

 でもこの先輩はいつもこんな感じ。通常営業だ。今更何も言う事はない。


 ゴホン。咳払い一つ。

 ひとしきり騒いだだところで部長は改めて雰囲気を作り、やり直してきた。


「少年よ、なにか悩みがあるんだろう? お姉さんに相談してみないかぁい?」

「あ、別にいいです」

「なんだとぅ!?」


 ボクがアッサリ断ると、部長は背中を大きく仰け反らせた。ひどくショックを受けた顔もだけど、オーバーリアクション過ぎると思う。


「ええい、貴様! 素直に頼ってくれないと先輩として寂しいだろうが! 今までの恩を忘れたかぁ!?」

「忘れてませんよ。これまで色々とお世話になりましたし、部長の発想力や行動力は尊敬してます」

「ならば何故断るぅ!?」

「だって部長自分が楽しむの優先するじゃないですか。最初より事態が悪くなっても笑ったりしますし。小さい事とか遊びの事とかならともかく、真剣な悩みは相談しませんよ」

「ヘイ、ジョニー。後輩が冷たいんだ。傷ついた私を慰めておくれよ」


 部長は僕から離れて石膏像(ジョニー)に近寄り、肩に手を置いて助けを求めた。反論できないと認めたからだろうか。


「ハハハッ! いいとも、それくらいお安いご用さ!」


 と思ったら、次の瞬間には高速で位置を移動して再び裏声を登場させてきた。


「『……と、言いたいところだけど、困ったな。カトリーヌは焼きもち焼きでね。君の愚痴に付き合ってたら、彼女にヘソを曲げられてしまうよ』おお……ジョニー。確かに君に言うべきじゃなかったね。すまない、忘れてくれ。一人で我慢するよ『……いや、さっきのは撤回しよう。やっぱり君に付き合わせてもらうよ!』そんな、ジョニーを困らせる訳にはいかない! 『困ってる女性を見捨てたら、それこそカトリーヌに顔向け出来ないさ。それに実を言うとね、僕は焼きもちを焼いてくれるカトリーヌの事も、嫌いじゃあないんだ!』ああ……ジョニー。そうか、ありがとう。恩に着るよ! …………『やあ、カトリーヌ。久し振りだね』『ピエール!? あなた一体何の用なの!?』『おおっと。そう警戒しないでくれよ。私と君の仲だろう?』『ふざけないで。人を呼ぶわよ』『だから待ってくれよ。今日はジョニーについての重大な話を持ってきたんだ』『……本当に、重大な話なんでしょうね?』」

「部長! ボク、お先に失礼させてもらいますね!」

「おう、帰れ帰れ! 楽しくなってきたからお前は邪魔だ!」


 器用に裏声を使い分けて一人即興劇を続ける部長を残し、ボクは美術室をあとにした。


 急ぎ足で。荷物も置いたまま、最低限必要な物だけを持って。

 部長のおかげで大切な事を思い出せたから。





「天音さん!」

「……何?」


 下駄箱の前。帰りがけの天音さんを見つけて声をかけると、振り返った彼女はやっぱり冷たい顔をしていた。

 いつも通りと言えばいつも通り。

 これが、天音さんの普通。飾らない素顔。


 それを理解した上で、ボクは天音さんに挑む。


「伝えたい事があるんだ」

「そう。ならさっさと済ませてくれる?」

「うーん。時間はかかるかも。大丈夫かな?」

「……好きにすれば。どうせ断ったらしつこく付きまとうんでしょ」


 呆れたような顔をしながらも一応は承諾してくれた。ボクについての評価は、訂正したくはあるけど些細な事だ。


 伝えたい事は本当に多くて整理がつかない。何から言えばいいのか、どうしたら伝わるか、分からないぐらいだ。

 だからボクは、このお願いをする。


「とりあえず、天音さんを描かせて欲しいんだ」

「は?」


 途端に天音さんに苛立ち混じりの強い瞳で睨まれる。たったの一音に冷たい反感が凝縮されていた。


「私言ったわよね? 笑えないのよ。アンタが望んでるモデルにはなれないわよ」

「いいんだよ、それで。ただのモデルならともかく、って聞いたよ。笑顔じゃない絵なら描かせてくれるんだよね?」

「……確かに、そうは言ったけど」

「じゃあ早速描くね」


 天音さんの返事を聞くと、美術室から持ってきたスケッチブックを広げた。創作意欲に身を任せるように、勢いよく鉛筆を走らせていく。

 廊下に立ったまま、不安定な状態で描いていく。だけどそんなのは言い訳にならない。したくない。

 モデルをしてもらう以上、全力で誠心誠意心を込めて描く。


「……うん。出来た」


 そして、完成。

 勿論天音さんの絵だけど、モデルそのままじゃない。アレンジを加えていた。

 魔界の暗い空と地面を背景に、装備を整えた立ち姿だ。恐怖の無い凛々しい横顔が前を見据えている。

 毅然と絶望に立ち向かう、勇敢で頼れる女戦士。イメージとしてはそんなところだ。

 前回の絵では光を際立たせていたけど、今回はその位置を彼女が担っている。

 つまり――


「ほら、見てよ。全然みじめじゃない。天音さんはかっこいいんだよ。頑張って変わろうとしてて。苦しい絶望にも自分一人の力で立ち向かってて。なかなか変われなくても諦めてなくて。そんな強いところが凄いと思うんだ。笑ってなくてもいい。ボクはね、笑ってない時の天音さんも嫌いじゃあないんだ!」


 そう、現状は苦しむ程悪くない。

 冷たいのも悲観的なのも、天音さんの個性で、良いところだ。

 それを否定していては、魅力的だとか笑ってほしいだとか言う資格はなかった。

 朝焼けも青空も夜空も、晴れでも曇りでも雨でも、魔界でも、空はいつでも素晴らしい。

 それを、馬鹿なボクは忘れてしまっていた。いくら天音さんを描きたかったからって、ありえない。


 当の天音さんは前回の時みたいに、ボクの絵に目を釘付けにしてくれていた。言葉はなくとも好評だと分かる。作者として嬉しくなるくらいだ。

 ただ、それも束の間。

 だんだんと他の色が出てくる。困惑や苛立ちで暗く染まった顔。

 そこから絞り出した声は、自分を必死に否定しているみたいだった。


「……なによ、それ。アンタが好きだからそのままでいろって言いたいの? アンタがどう思ってようと関係無いわ。私が、私自身を、嫌いなのよ。暗くて笑えない、こんなのを変えたいのよ!」

「だったらボクが手伝うよ。明るい絵を描きたいなら一緒に描いて教えるし、笑いたいなら笑わせられるように頑張る。一人で難しいなら二人でやればいいんだよ!」


 悩んでたら解決する訳ない。

 距離があろうが溝があろうが、とにかく動かなきゃ始まらなかった。苦しむかもしれない、なんてボクが恐がってちゃいけなかった。

 あの日見た、恐れのない背中のように、突き進む。


「……さっきと言ってる事違うじゃない。一人で立ち向かう強いところが凄いんじゃなかったの。笑ってなくてもいいんじゃなかったの?」

「だから応援したいんだよ。ボクも頑張らなきゃ、ってね」

「だったらさっきのはなんだったの。別になんでもよかった訳?」

「どっちにもそれぞれ良いところがあるからね。天音さんが選ぶ方を尊重するよ。だってボクが一番望んでるのは――天音さんに、幸せになってもらう事なんだ!」


 ボクの声が昇降口に反響した。自分でも驚くくらいだから、天音さんが面食らっているのもよく分かる。

 そして静寂。

 伝わっただろうか。心配しながらも、ボクは天音さんの返事を沈黙して待つ。


「……なに、それ」


 静かな中、ポツリと生まれた囁き声。天音さんにゆっくりと普段の表情が戻っていく。 


「なによ、それ。なにもかも滅茶苦茶じゃない……ああもう、ポチ川ってホントバカ犬」


 馬鹿にされたみたいけど、全然気にならない

 だって天音さんが、少しだけでも笑っていたから。それだけで嬉しくなる。ボクの方までにやけてくる。


 そんな時、天音さんが近づいてきてスケッチブックを掴んだ。


「これ貸して」

「え?」

「いいでしよ。勝手に私をモデルにしたんだから」


 返事をする暇もなくスケッチブックを取っていった天音さん。真剣な表情でスラスラと描き足していく。

 そして、あっという間に出来上がった。


「これは犬?」


 見せてもらうと、ボクの絵に輪郭の太い簡単な絵が追加されていた。

 絵の中の天音さんの、前方足下に。彼女を先導するように、もしくは寄り添うように。

 ボクの描いた雰囲気とは合ってないけど、なんだか暖かい絵だった。初めて見る、天音さんの新境地だ。


「ええそうね、下手だから犬かどうかも分からないわよね。でもね、どこかのバカ犬だからこれぐらでいいのよ」

「下手? これはこれで味があると思うけどなあ。愛嬌があるというか……うん、絵本とかにも合いそう」

「これが? ポチ川ってやっぱりなんでも褒めるのね。本当どんな感性してるのよ」

「本当に良いと思うのになあ」

「……やっぱり私は、アンタが嫌いよ」


 話の流れからすると唐突な発言。それを天音さんは冷たく、淡々と言った。既に笑顔からはすっかり遠い。

 ボクの顔を真っ直ぐ見つめて、彼女らしく正面から挑んでくる。


「一緒にいたら調子が狂うし、馬鹿馬鹿しくなるし、意味が分からないし、アンタがいなかったらこんなに苦しんでなかった。他にも文句言いたい事ばっかりよ。でも――」


 そこで天音さんの雰囲気が変わった。

 暗さが薄まり白み始めた、夜明け近い空のようなそれに。辛さや苦しみから解放された、穏やかな顔と声にだ。


「そう思ったままでいいって言うなら、モデルにくらいなってあげるわ。その代わり、私の方にも最後までとことん付き合ってもらうから。覚悟しておいてね、今更逃げるのは許さないわよ」

「逃げるなんて勿体ないこと出来ないよ! うん、こちらこそよろしく!」




 それからボクらは時々、美術部とは別に活動を始めた。

 ボクは天音さんの風景画を手伝い、天音さんはボクのモデルになる。

 描く度に女戦士は凛々しくなり、暗い風景に差す光は明るくなり、ついでにたまに描かれる犬が可愛くなる。そして、笑顔になる回数が増えていく。

 その変化がボクは嬉しくて、大好きで――


 益々天音さんを魅力的に思えていくのだった。

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