第3話 落伍者

「あ、先輩。おはようございまぁす」

「……ああ、おはよう」


 時刻は朝の八時頃。場所はとある企業の駐車場。

 二十代であろう若者と、彼より二回りは年上に見える男性が挨拶を交わした。

 どちらもスーツ姿であり、サラリーマンらしい服装。彼らはこの企業に勤める上司と部下であった。

 それにしては若者の挨拶は気安いが、男性の渋面には諦めの感情がこもっている。彼が抱える苦労の大きさを感じさせた。


 そんな上司の心情をよそに、やはり軽い調子で若者は話題を振ってくる。


「ところで、先輩。あの話ってどう思います?」

「一体何の話だ?」

「何って、そんなの魔界とか魔物とかっていう、あれの話に決まってるじゃないですかぁ。あれ、俺も最初は変な夢だと思ったんですけど、色んな人が見てるって騒ぎになってたんです。今ネットとかでも結構な話題になってますよ。先輩も見たんですよね? 魔王様の演説」

「む……」


 若者が提供してきた話題は、今まさに重要事項として世間を駆け巡っているものだった。彼は話しながらスマートフォンを操作し、その事実を証明している。


 男性はすぐには返答をしなかった。

 彼にも実際に心当たりがあるようで、記憶を思い返す仕草をしている。


「……ふん、下らない。あんなもの、ただの夢だろう」


 だがしばらくした後、上司は首を横に振り、吐き捨てるようにすげなく切り捨てた。

 真面目に議論する価値は無い。

 断固とした態度でそう語っていた。


 しかし、それだけで若者は折れなかった。すぐさま納得いかないという顔で反論を始める。


「ただの夢、じゃあ説明つかないと思うんですけどねえ」

「説明つかなくて当然だ。所詮夢なんだから」

「でも、ここに実際に魔物と戦って生き残った、っていう話も結構ありますよ?」

「インターネットの情報を鵜呑みにするんじゃない。そんなものは単なる作り話だろう」

「世界中の人間が同時に同じネタを思いつく、っていうのはちょっと難しいと思いますけど?」

「そんな事もあるだろう。若い者はすぐ流行に流されるからな」

「先輩、相変わらず頭固いですよねえ。だから出世できないんじゃないですか」

「その話は今は関係無いだろう」


 上司は部下の発言をひたすらに否定していく。あくまで非現実的な話は認めない、その姿勢が揺らぐ事はなかった。

 対する若者も、相手に意地でも認めさせようと言葉の限りを尽くす。

 互いに全く譲らず、噛み合わない。論争はいつまでも平行線を辿るばかり。


 それに無理矢理決着をつけさせたのは、突然の浮遊感。

 話題になっていた、当の異変だった。






「ほら、先輩。やっぱり本当だったじゃないですかぁ」

「そんなっ、馬鹿な……」


 軽い調子の若者が自慢げな顔で勝ち誇る。自論が正しかった事実が、異常な事態への不安を払拭しているらしい。

 もっとも、男性は「夢」と一致する光景への驚愕に忙しいあまり、話を全く聞いていないようだったが。


 二人が移動した先は、まさしく魔界と呼ぶに相応しい空間。

 毒、錆、血、闇。まず目に飛び込んできたのはそれらを連想させる暗い色。そして淀んだ空気や、曇りという表現では足りない空模様が不快さを感じさせた。

 実に現実感の乏しい、悪夢めいた場所だった。


「これが戦士の姿ってやつですかぁ。それより先輩、固いのは頭だけじゃないんですね」


 異常事態も不快感もお構い無し。

 若者は場違いな軽口を叩きつつ、自身と上司の姿をジロジロと眺める。


 上司は全身を鋼鉄の甲冑に固め、長い槍を所持していた。さながらファンタジーにおける騎士といった風体。

 若者の方は比較的軽そうな革の鎧に、二本の剣だ。こちらは剣士か、もしくは盗賊といったところ。

 性格の差が、そのまま装備の差となって現れている。


 そして注目すべきは、倒すべき敵。魔物。

 離れた場所に、二足歩行をしている人間大のトカゲめいた生き物がいた。牙も爪も刃物のように鋭く、狂暴そうな目つきをしている。


 そうやって魔物を落ち着いて観察する余裕が、若者の方にはあった。


「あれが魔物みたいですね。強そうには見えないですけど」

「……あ、あんな大きさの爬虫類だったら、現実にだっているだろう」


 男性は未だに反論を続ける。

 しかし声はか細く、上ずっていた。説得力があるかどうかは、自分自身が一番理解しているらしい。


 しかしそれでも、せめて口だけでも、魔界や魔物などという非現実的な存在は意地でも認められなかったのだ。

 認めてしまえば、何か大事なものが壊れてしまいそうだから。


「ああ……そうか。そうだ、これは夢だ。夢ならおかしな生き物がいてもおかしくはない……」

「ちょっ、先輩!? 危ないですって!」


 男性はブツブツと呟くと、フラフラと頼りない足取りで前に進む。背後からの警告は全く届いていなかった。


 これは夢であり、危険ではない。

 それを証明するべく、自分の心を守るべく、彼なりに必要不可欠な選択だったのだ。


 互いの距離が狭まると、トカゲは獰猛な鳴き声をあげて威嚇してきた。

 それでも男性は構わずに進む。フラフラと、意思無き操り人形のように。


 ただ、その行動は、自分が絶好の獲物であるとアピールする事にほかならなかった。

 淡い望みを裏切り、現実は非情に動く。

 奇怪な鳴き声があがった。魔物が勢いよく跳びかかり、武器である爪を横一線に薙いでくる。


「ぐぅああああぁぁっ!」


 辺りに広がる男性の悲鳴。

 顔の前面に鋭い痛みが走り、彼は堪えきれずにその場でしゃがみこんだ。

 触って確認してみると、顔には深い溝ができていた。なのに血は流れていない。現実ではあり得ない現象。


 ならば、これはやはり夢か。


 そう思う男性の肌からは、血の気が失せていた。

 呼吸も弱々しく、動こうにも力が入らなかった。近くにいるはずの魔物の鳴き声も遠くに聞こえる。

 青ざめた男性は呆けた顔で呟く。


「これは……これが……現実? いや、夢でも痛みぐらい……」


 男性はまだ否定を続けようとして、そこで許容可能な限界を超えた。

 絶望。目の前が真っ暗になる。


 真っ暗になったそこに、明るい光が映った。

 優しい妻に元気な子供。苛立たされる通勤風景。仕事中のオフィス。同僚との飲み会。

 今までの当たり前、平和な光景が次々と浮かんでいった。


「そうだ……」


 男性は納得した風に呟く。

 これこそが現実の、現実であるべき光景。平和な日本の、刺激はなくとも幸せな日常。


 そう、だから、


 こんな事はあり得ない。


「ははっ。そうだ、あり得ない……あり得ないあり得ないあり得ないあり得ない……」


 うわ言のように同じ単語を繰り返し、頭の中で幸せな幻にすがりつく。夢よ覚めろと強く願う。


 ただし、そうと信じたいだけの願望は何の意味もなさない。

 現実逃避の間にも、刻一刻と現実は歩み寄る。

 そして、再び顔面に鋭い爪が迫り――


 ざしゅん。肉の裂かれる音が響いた。






「だっ、大丈夫ですか、先輩!? 先輩っ!?」


 先程までとは違う、色鮮やかな景色。晴れた青空の下、様々な車体が並ぶ駐車場。

 二人のサラリーマンは魔界から戻ってきていた。上司が魔物に切り裂かれる前に割り込み、双剣でもって相手を討ち果たした若者の手柄である。


 だが勝利や生還を喜ぶ様子は無い。

 若者は上司である男性の肩を掴み、ガクガクと荒っぽく揺すっていた。これまでの彼とは別人のような、必死の形相で。

 そうなったのには当然、相応の理由があった。


「は、はははっ……あはははははっ……あはははははは……」


 男性が呼びかけにも応じず、虚ろな顔で乾いた笑い声を響かせ続けていたからだ。

 壊れたように。狂ったように。正気を失ったように。

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