第4話 玄象(後編)

琵琶を持った男はまっすぐ私を見据えていた。私は後頭部の痛みが酷くなり、その場に座り込んでしまった。「玄象げんじょう」と、私はまた呟いていた。男は微笑みを浮かべ、

「その通り。ハクガ殿、玄象は、ここにある」

「あなたは、何者なのです」

「さあな…。妙音みょうおん、とでもしておこうかな」

「なぜ、私の名前を」

「ふふ。そんな気がしただけだ」

 面妖な男だ。私は口を歪めた。それにしても、後頭部の痛みはどんどん酷くなっている。二日酔いなのかとも思うが、この玄象の音は私の酔いを完全に冷ましてしまっていた。

「なぜ、玄象を、あなたが」

 私がそう言うと、妙音と名乗る男は不機嫌になったのか、口を歪めた。話を勝手にコロコロと進める面倒な人物だ。私は慌てて手を振り、「いいえ」というと妙音はにやりと笑った。

「我々は、夢と同じもので織りなされている」

「夢?」

「そう、夢だ」


 次の日、私は部屋ですっきりと目覚めた。起き上がり周りを見渡すが、別段変わったところはない。頭痛はなくなっていた。私は朝食を取り身なりを整えるとまたヤニスとともに駱駝に乗って「白い谷」へと向かった。道中、私は彼に昨日別れた後に起きた出来事を話してみた。ヤニスは腕を組み、

「広場で男が弾いていた、玄象という銘の琵琶という楽器…私はよく知らないのですが、その音が城まで届くというのが、ちょっと不思議に感じますね」

 それは、そうであろう。

 ものの本によると、音とは空気の振動だそうであるが、そうであれば私だけでなく、周囲の人々もこの音を聞いたはずだ。私とヤニスが別れた時、まだ夜中というわけではなかったし、外には人が何人かいたように思う。しかし私には聞こえたのだ。いや、しかしもしかしたら、私はその日部屋に戻って横になり寝てしまい、あの玄象を持った妙音という男に会ったのは全て夢だったのかもしれぬ。

「玄象というのは、どういう琵琶なんですか?」

「私の国において、君主の御物でした。私も何回か演奏する機会がありました…。玄象というのは不思議な楽器でしてね。楽器を粗末に扱う者や、技量が十分でない者が弾こうとすると、うまく鳴らないというんですよ」

 私は突飛な話の照れ隠しに笑ってみせたが、ヤニスはそれを興味深く聞いていた。

「それは、楽器も心というか、魂を持っていると?」

「え、ええ。ただ、私が弾いていた頃には既に、周囲の人々もその話を信じていなかったように感じますけどね」

 と言ってから私は唇に手を当てた。私の記憶の全てが、暗い底なし沼に落ち込んでいるのだとすれば、その記憶の一部が泡のようにそこから浮き出ているのかもしれない。楽器を聞いたり奏でたりすることで、その泡の出る勢いは強いようにも感じられる。そのようなことを考えながら「白い谷」についた。ヤニスら調査員はすぐに駱駝から降りて配置につく。遠目で見れば、巨大な石像らしきものを中心とした古代の遺跡を発掘中としか見えないだろう。私は駱駝から降りて少し歩き、機械人形の前に来た。ヤニスが手を挙げる。笛を吹いてほしいという合図である。私は葉二を構えた。5日くらい前に一度動いたきりで、昨日までまったく動かなかったのだ。今日もそうなるだろうか。

(我々は、夢と同じもので織りなされている)

 昨日、夢か現か不可解な中で、男は確かにそう言った。昨日、いや、今、私は長い長い夢を見ているのだろうか。この世界は全て夢なのか。それとも現なのだろうか。

 そう、昔、こんな話を聞いた。ある男が夢の中で蝶となり、自由に飛び回っていたが、ふと目が覚めると、はたして自分は蝶になった夢を見ていたのか、実は夢で見た蝶が本当の自分であって、今の自分は蝶が見ている夢にすぎないのではないか。


昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩々然として胡蝶なり

自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり

俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを


 そう、確かこんな話だった。

 今この場にいる自分が夢ならば、では本来の自分は何なのだ。頭に靄のかかったような気持ちを晴らすために、私は機械人形を見据え、唇を唾で濡らし、龍笛を吹く。あるがままに。まず「小乱声こらんじょう」を吹いた。伸びやかな青空に鋭い音色が響く。私は吹きながら少しずつ機械人形に近づいていった。周囲の者が固唾を飲んで見守る中ではあったが、しかし、機械人形はぴくりとも動かない。なぜだろうか…。私は笛の歌口を唇に付けたまま、吹き終わり、止まった。

「龍笛一管では、あの白い機械人形も寂しかろう」

 後方から声が聞こえた。あの声だ。私は思わず振り返ると、昨日夢で見た男が狩衣を着、駱駝に乗っていた。目には黒い眼鏡のようなものをかけている。彼は駱駝から飛び降り、背中に背負っていた袋から琵琶を取り出す。異変に気づいた周囲の者はうろたえ、走ってくる者もいたが、男はその場に座り、左手に構えると右手で静かに撥を動かした。その響き。昨日、耳ではなく心に直接響くような、あの感じ。周りは歩みを止め、その場が一瞬止まった。この男、よほどの名手に違いない、と思った。

「その笛、ただの笛ではあるまい。葉二だな」

「なぜそれを!?」

「ハクガ殿、わしが合わせてやろう。何が良い」

「…蘭陵王らんりょうおう

「良かろう。では、沙陀調音取から入って、そのまま当曲を吹け。舞楽吹が良いな」

「あなたは、一体…?」

「妙音と言ったろう」

 私は気圧されながらも、立ったまま沙陀調音取、次に蘭陵王を吹き始めた。盤渉の責め、人差し指を回し独特の音が鳴る。それに合わせて妙音の玄象が唸った。楽琵琶は一曲を弾くというよりは、音と音の合間に音を鳴らして、三管に曲の切れ目を知らせるという意味が大きいのだが、彼の琵琶は違った。前に出ることはないが後に行き過ぎるということもない、そんな存在感を示していた。

「ふん、うまく合わせているな。これならいけそうだ」

 妙音の言葉に合わせるかのように、遠くから歯車が回る、ぎりぎりぎり…という異様な音が聞こえてきた。目の部分が緑色に光る。一歩、また一歩と、機械人形は歩みだした。

「動いた…!」

 ヤニスは歓声を上げた。彼は他の調査員たちを離れさせつつ、自身は近くに寄り、その動く機構を熱心に確認した。人形がその足を地面につけるたびに大きな音がし、鳥が驚いて羽ばたいた。足の裏には歯車のようなものもついている。あれだけ大きな物が二足歩行で歩いてよく転ばないものだ。すると、ヤニスがこちらに走ってきた。

「もう大丈夫です!止めてください!」

 私は慌てて途中止めを吹き、妙音の琵琶もそれに合わせた。その瞬間、機械人形はギギギ、という音とともにその場に立ち尽くし、緑色の光は遠くなり、消えてしまった。私は大きなため息をつき、その場に座り込んでしまった。どのくらい吹いただろう。10分も吹いたかもしれないが、実際の舞楽・蘭陵王で吹く際はこんなものではない。しかし、異様な疲労感があった。隣の妙音を見ると私と同じ、異様な汗をかき肩で息をしていた。

「…舞楽の早さのほうが、機械人形は動きやすい」

「…知ってるんですか?これを」

「まあな」

 妙音は頭をかいた。やってきたヤニスに、とりあえず私はややこしくなると面倒なので、妙音を友人と説明した。


 昼食時、妙音は身の上話を始めた。彼もまた、3年ほど前にどこか分からぬ場所からこの場所へやってきた。吟遊詩人のように、琵琶を弾いて生計を立てていたらしい。

 彼は敦煌に来る前に、機械人形を見たことがあるという。砂漠を何人かで駱駝に乗って移動している最中、あるオアシスに立ち寄った。駱駝をつないで水を飲み休んでいると、ふと遠くの岩山に岩とは思えないような深紅の岩があった。それに目を注がれると、急に妙音は琵琶を弾きたくなり、座って琵琶を弾き始めた。するとその岩が剥がれ、中に入っていた巨大なものが動き始めた。岩は機械人形だったのだ。しかし機械人形はそのまま歩いて、どこかへ行ってしまった…という。彼はその場に居た何人かに聞いてみたが、そのうちの1人が「晴れた時にたまに見ることがある。妖怪のようなもの。音楽が好きらしい」とだけ答えた。

 それが、彼が機械人形を見た最初だったという。

「なんなんです、それは」

「こっちが聞きたいくらいだよ。しかし、ここは、何かおかしい」

「おかしい?」

「例えば、ここの食べ物だ。今、平べったいパンを食べているだろう?」

「ええ、まあ…」

「君は、中に入ったひき肉をなぜ食べられるんだ」

「はっ?」

 私は口をぽかんと開けてしまった。肉はその匂いから判断するに羊だろうか。しかし妙音もさっきまでそのパンを頬張っていたのである。

「そして、なぜこれをパンだと認識できる?」

「いや、それは」

「機械人形の足にあったのは」

「歯車です」

「なぜあれを歯車だと思った?」

「いや、それは…。だって」

「君は、記憶が曖昧だといった。しかしいくつか思い出すこともあるはずだ。しかし、私が今まで言ったものは、初めて目にしたものであるはずだ。なぜそうだと認識できるのか…」

 随分と哲学的なことを言うものだ。

「それは、あなたも同じじゃないですか。なぜ、私の笛を葉二だと認識できたんですか」

「そうだな。”そう思った”…それだけでは、駄目かな。この眼鏡をサングラスと認識できるようにな」

 妙音は少しずれたサングラスを直した。

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