第30話 学問

「殿下、ベアトリクス様がいらっしゃいました」


 廊下に控えている衛兵が居間で読書をする王子にお伺いを立てた。もちろん王子がこれまで一度として断ったことはないので、儀式的なものだ。

 しかし、ヴァルデマーは久しぶりの訪問を喜びつつも迷っていた。いや、困惑していた。


(これは仲がいいと周囲にアピールする為の訪問…いや、先日の一件から離婚の話とかっ?いやいや、今は食堂と学校の設立で忙しいときいているから違うだろう。多分…大丈夫だ…きっと…)


「通せ」


 ヴァルデマーは葛藤をイチミリも見せずにスンとして兵に答えた。ここまで来たら立派なものである。


「失礼いたします」


 夜着ですたすたと入って来たベアトリクスは、いつもならば居間で本など読んでしばらくしてから部屋に帰っていくのだが、その夜は違った。


「お話があるのですが宜しいでしょうか?」


 ヴァルデマーは密かに凍り付いていた。


「何だ?そこに座れ」


「はい、失礼致します」


 ベアトリクスがふわりとヴァルデマーの正面に座ると、王子を見据えた。


「殿下、先日は大変失礼いたしました。城外の様子を初めて目の当たりにし、心が乱れてあのようなきつい言い方をしてしまいました。どうかお許しくださいませ」


 王子はホッとしたが、彼女は『言い方は悪かったが、あれは本音です』と暗に言っていることに傷付いた。


(そうだ。ベアトリクスはいらぬ嘘を言わない。そこがいいのではないか…しかし…)


「もちろんだ。俺が悪かったのだから気にするな」


 王子が答えるとベアトリクスはホッとしたように肩を降ろした。彼女なりに緊張していたのだろう。気まずい対面が終わったとばかりに王子が本の行間に目を落とすと、彼女は続けた。


「で、相談なのですが…」


(なにっ!まだあるのかっ?俺の心がもたない…次は何だと言うのだ…)


「な…何だ?」


 王子が言葉を絞り出すように聞いた。そんな彼の困惑などベアトリクスは全く意に介していない。


「実は学校の講師を探しているのですが、適当な方が見つからないのです。当分の間わたくしが子供たちに教えたいのですが、宜しいですか?」


 いつも通り予想と随分離れた場所から繰り出されたパンチに王子は倒れそうだった。


「なっ…ダメに決まっているだろう!なぜそなたが…」


「殿下がおっしゃる通りわたくしが教えるなどおこがましいとは思います。しかし、この国の将来の為にすぐにでも始めねばなりません。キタイの火薬を手にいれても開発するには知識が必要ですし、それには最底限の学問がありませんと」


 ベアトリクスの言っていることは正論だ。

 大陸の西側ではハリス教が学問を制限して独占し、権利を振りかざして自分達に都合の悪いものを排除してきた。おかげで、大陸の西側は識字率が異常に低い。

 東方では街の本屋で市井の人々が買い求め文化を楽しんでいる時代に、西では古い時代の哲学書などハリス教に沿わないものをすべて廃棄し、知的好奇心を徹底的に取り上げ、日々の疑問をも取り上げた。彼らが定義した幸せを植え付けて、ハリス教に反する国への反抗心を育てる。

 ハリス教徒の上層部以外への知識流出を徹底的に阻止しようとする根性は見上げたものだが、これからの時代はそうはいかない。誰かがこのいびつなカラクリに気が付くだろう。それが西方世界を徹底的に停滞もしくは後退させているのだと。


 学ばせないようにする勢力を排除するよりも、地道に足元から知恵の芽を育てていこうというベアトリクスの前向きさを王子は評価する。しかしだ。


「ベアトリクスが教える必要はない。城の外は危険だ…」


 前のめりに言い放った王子は、ベアトリクスの顔色が変わったのを見て先日言われたことを思い出した。その上で彼女は自分にお伺いを立てているのだ。


「…から、誰か適任者を探すよう大臣に明日頼んでおく。もしそなたが仕方なく教えるのであれば、クローディアスを供に付けろ。あいつがいれば俺も安心だ」


 王子の言葉を聞いてベアトリクスは喜びのあまり立ち上って彼の手を握った。


「ありがとうございます、殿下!では、デーンの言葉と文字、歴史を教える方と、簡単な数学を教える方をお願いします。きっとその二つがこの国の100年先を支えるでしょう!」


「うっ…あまり長い時間城外で過ごすことのないように」


「もちろんですわ!ああ、子供達に教えるのは長年の夢でした。スタツホルメンでは文字を読めるものがほとんどですが、書くことは一部の者しかできませぬ。学問とはデーンのように国力がないと広く普及するのは難しいのです」


 満面の笑みを浮かべるベアトリクスを前に、ヴァルデマーは温かいなにかが心に宿るのが分かった。


(そうか、わかったぞ!好きな相手が嬉しいと俺も嬉しくなるのだな…)


「ベアトリクス、頑張ってみろ。俺も応援する」


 彼がおずおずと掌を彼女の頭に乗せると、ベアトリクスは初め驚いていたが嬉しそうに笑った。伯父からそうされた時のように彼女の心が温かくなっていた。

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