第36話 落ちた涙は戻らない

 ずぶずぶと、闇の中に沈む夢を見た。

 底なし沼のように身体が沈む。

 足が沈み、腰が沈み、肩が沈み、顔だけが空気に触れる。

 もがいても、足掻いても、闇の泉から抜け出すことはできない。

 苦しい、苦しい、息ができない。

 必死に手を伸ばすと、その先に誰かがいることに気づいた。

 助けてくれ!

 必死にそちらに視線を向けると、赤い髪の少女がこちらを見下ろしていた。

 赤い髪の少女……?

 心臓が冷えた。

 その少女は、自分を見下ろしたまま、冷たい声で言い放つ。


 ――どうして、助けてくれなかったの?


「リタっ!!」

「うわっ!?」


 飛び起きると、すぐ横で驚いた声が上がった。

 視線をそちらへ向けると、濡れた布を手にしたリタがいる。

 ……リタが、いる。


「リタ!」

「きゃっ!?」


 思わず抱きしめた。

 強く、強く、力強く、決して離すまいと。


「よかった! 無事だったんだな、リタ!」

「や、やめなさい! 私より自分の心配をするのです!」


 言われて、エイトールは自分の状況を確認した。

 包帯だらけの身体がベッドで寝かされている。

 周りを見る。

 どこかの部屋、明るい光が差し込む清潔な部屋だった。

 ここは、どこだ……?

 いや、それよりも先に――。


「リタ! 早く帝城に向かわないと!」

「……いえ、エイトール。もういいのです」

「もういい?」


 首を傾げるエイトールに、リタは新聞を差し出した。

 日付を見て、目を見開く。


「お前は一週間も寝込んでいました。そのうちに起きたことが書いてあります」

「……帝国語が読めねぇ」

「……お前は授業をどうやって受けていたのですか?」


 リタは呆れながらも、近くの棚から別の新聞を取り出した。

 今度は王国語で書かれた新聞だ。

 準備がいいなと思いながら、その記事に目を通す。


『第二十八代皇帝オフェーリア=プルド・イスカ新女帝の即位!』


「――っ!?」


 ぐしゃり、と新聞を掴む手に力がこもる。

 それでも、歪んだ文字に訂正はない。

 オフェーリアが皇帝になった。

 つまり――。


「リタ、これって……!」

「事実です。オフェーリア姉様は五日前に玉帝ぎょくていの儀を執り行ってイスカ皇帝になりました。……私は死んだことになったみたいです」

「じゃ、じゃあ……」


 エイトールの唇が震えた。

 そこから先の言葉を言いたくないかのように。

 リタはゆっくりと待つ。

 エイトールがその事実を認めるのを。


「俺たちは……負けたのか……」

「……はい。私たちの負けです」


 開いた窓からそよ風が迷い込む。

 窓際に置いてあった花瓶から、赤い花びらが散ってベッドに落ちた。

 その花びらの隣に、ぽたぽたと涙の滴が落ちる。

 エイトールが、泣いていた。


「ご、ごめん……リタ……俺が、お前を、皇帝にするって言ったのに……!」

「謝らないでください。エイトールはこれ以上ないくらいに頑張ってくれました」

「で、でもっ! 俺は、約束したのに……!」

「お前がいなければ、私は生きてすらいなかったでしょう」


 リタがエイトールの頬に手を添える。

 その涙を、指先でそっとぬぐう。


「ありがとう、エイトール。こんなにも傷だらけになってまで、私を守ってくれて」

「――っ!!」


 エイトールはリタを抱き寄せた。

 その胸に顔を押し当てて、泣いた。

 子供みたいに泣きじゃくった。


「ごめん……ごめんっ、リタっ! 俺はお前を、皇帝にしてみせるって……言ったのに……言ったのに……!」

「泣かないで……泣かないで、エイトール……私の大切な友達。私がお前を恨むだなんて絶対にありません」

「うぁああああああっ、あああああああああああっ!!」


 リタもエイトールを優しく抱き締める。

 精一杯の感謝を、その腕に込めながら。

 泣いている子供をあやすかのように、その耳元で優しく呟く。

 気づけば、リタの赤い瞳からもぽろぽろと涙がこぼれていた。


「リタ……リタ……!」

「エイトール……エイトール……!」


 ふたりは泣いた。

 名前を呼び続けた。

 お互いの心を慰め合うかのように、抱き合った。

 でも、どんなに泣いても現実は変わらない。

 涙を流すたびに、その現実が心をきつく締め付ける。


 ふたりは、負けたのだ。


「うぁあああああああっ……!」

「あぅうううううううっ……!」


 涙が枯れるまで、ふたりは泣いた。


 ***


 ようやくふたりが落ち着いた頃――。

 こんこん。

 部屋にノックの音が響く。

 リタはパッとエイトールから離れた。

 抱き合っているところを見られたくないようだ。

 あんなに何度も抱きかかえて走ったというのに、それとこれとは別問題らしい。

 こほんっ、とリタは咳払い。

 心を沈めて、頬の赤さが薄めてから静かな声を出す。


「どうぞ」


 ドアが開く。

 白衣を着た長身の女性。

 目に紫色のくまのついた、不健康そうな見た目の女医が現れた。


「騒がしいと思ってきてみれば、やっぱり彼が起きたんだね」


 その手は、トレーを掴んでいた。

 シチューのよそわれた皿と、新鮮な野菜が乗せられている。

 エイトールの腹が、きゅるるるる、と鳴いた。


「おや、わかりやすい反応だ。食べるかい?」

「いただくぜ! ありがとう!」


 微笑んだ女医が、近くの棚にトレーを置く。

 エイトールはすぐにスプーンを取ってシチューをかっこんだ。

 美味い!

 そんなに濃い味付けでもないのに、舌が喜んでいる。


「栄養剤ばかりだと胃が弱るからね。できるだけきちんとした食事を摂って欲しいとは思っていたが……五日ぶりの食事でその食べっぷり、丈夫な胃袋を持っているみたいだね」

「おう! 俺の胃袋は鋼鉄製だぜ!」


 用意された食事がなくなるまで数分とかからなかった。

 ふぅ、と満足そうに腹をさするエイトールはそこで一言。


「で、あんた誰?」

「エイトール、失礼なことを言ってはいけませんよ。この方は命の恩人です」


 リタが立ち上がって、女医へと手を差し出す。


「こちらの方はメリダ女医。エイトールの治療を担当してくれたのですよ」

「そうなのか。ありがとう!」

「なに、怪我人を放って置けないのは医者の性分しょうぶんだよ。それにエイトールくんの身体はいじってて面白かったし」

「え?」

「おっと、これは言わない方がよかったかな?」


 何気なく怪しいことを言うメリダ女医に、エイトールがぞわりと怖気立つ。

 意味もなく包帯まみれの身体を触り、なんとなく己の無事を確かめた。


「エイトールくんの身体は不思議だね。普通の人だったら三回は死ぬくらいの怪我だったのに、五日でほとんどの傷は塞がってしまったよ。是非、研究対象にさせて欲しいんだけど……」

「…………命の恩人だもんな。ちょっとだけなら」

「ははっ、冗談だよ。そんな怯えた目をしないでくれ。興奮してしまうではないか」

「あんた、けっこう怖い人だな!?」


 穏やかな表情を浮かべながら、恐ろしいことを言うメリダ女医。

 珍しくエイトールが怯えていた。


「あんまり恩を感じなくていいよ。だいたいは君自身の回復力のおかげだ。校長が君を連れてきた時、私はもう助からないと思っていたからね」

「校長……?」

「私が説明しますね」


 リタが今度はエイトールへと向き直る。

 窓から入った風が、赤い綺麗な髪を揺らしていた。


「川へと跳び込んだ私たちは運良く流木に引っかかって川岸によじ登ることができました。しかしエイトールは疲労と怪我で気絶した状態。水もたくさん飲んでいて命が危なかったです」

「確かに、川に落ちてからは記憶がねぇな」

「ですが、幸運は続きます。私たちのそばを、とある方が通りかかったのです」

「とある方……?」


 エイトールは首を傾げる。

 リタは少しだけ考えて、提案した。


「エイトール、歩けはしますか?」

「おう、大丈夫だぞ」

「なら、直接会いにいきましょうか。エイトールが起きたことも伝えておかないといけませんし」


 そうして、ふたりは会いに行くことになった。

 ふたりの命を――、運命を繫げてくれたとある人物に――。

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