第35話 底の底の足掻き

 エイトールは、悲鳴をあげられなかった。

 悔やむ暇すらなかった。

 それは、エイトールが死んでしまったから?

 矢の一斉掃射いっせいそうしゃにより即死してしまったから?

 ――否である。


「……なによ、これ?」


 オフェーリアの、困惑に満ちた声が落ちた。

 いつまで経っても襲ってこない衝撃に、違和感を抱いて振り返ると――。


「……なんだこれ?」


 自分に向かって飛んできていた無数の矢。

 それが一本として例外なく、空中で止まっていた。

 魔法剣により時間の停滞ではない。

 停止だ。

 完全なる不動で、無数の矢が空中に止まっている。

 その摩訶不思議まかふしぎな光景にエイトールは――。

 否――その戦場にいた誰もが驚きを見せていた。


「……リ、リタ……!?」


 目の前の超常。

 世界の法則を真っ向から裏切る光景。

 それをしたのが誰なのか――?

 エイトールに疑いはなかった。

 抱えたリタの身体から、猛烈もうれつな魔力が溢れていたから。


「…………」

「リタ! おい、リタっ!」


 真紅の瞳が異様な輝きを示していた。

 呼びかけても返事がない。

 エイトールは自身の傷を忘れるほどに必死にリタを呼んだ。

 無事なわけがない。

 こんなにも超常な力を発動して、何の代償もないわけがない。

 もしここで呼び止めるのをやめてしまえば、リタが二度と戻らないような気がした。


「リタ! リタ! おい、返事しろよ!」

「……」


 何度呼びかけても、真紅の瞳を限界まで見開いたまま応えない。

 見たものの時を止めるかのような異能。

 未だに空中にて止まる矢の雨を見れば、その解釈もあながち間違っていないだろう。

 まるでその代償に彼女自身の時すらも止まってしまったかのように――。


「ふ、ふざけんなよっ! 戻ってこい! お前は皇帝になるんだろ!? こんなところで止まっていいやつじゃないんだ!」

「…………」


 届かない。

 届かない。

 エイトールの声が届かない。

 涙が溢れてきた。

 根拠もない不安が、心をぎゅっと締め上げてくる。


「お、おい……頼むよ、リタ……お前がいないと、俺は何ために頑張ればいいのかわかんねぇよ……!」


 ぽたぽたと。

 涙の滴が、リタの頬に落ちていく。

 まるでエイトールの涙が、リタの心を代弁しているかのように頬を伝う。

 身体から力が抜けていく。

 違う。

 元々限界だった身体が、限界を思い出しただけだ。

 リタがいたから頑張れた。

 その想いのひとつで、これまで傷も疲労も騙していただけに過ぎない。

 だから、リタが消えそうになっている今――。

 エイトールの身体も限界を迎えた。


「ふざけんな、ふざけんなよぉ……っ! 起きろよ、リタぁああ……っ!」

「…………」

「起きねぇと、お前のそのぺったんこな胸を揉むぞ、おい……!」

「誰の胸のぺったんこですか!」

「ぐへっ!?」


 殴られた。

 頬を思いっきりグーで殴られた。

 誰に――?

 リタに。


「……リ、リタ……?」

「……? どうして泣いているのですか、エイトール?」


 不思議そうに、首を傾げているリタがいる。

 先ほどの猛然と溢れていた魔力も溶けるかのように霧散むさんしていた。

 真紅の瞳に渦巻いていた光も落ち着き、強く優しいリタの瞳に戻る。

 瞬間――背後で、かららららんっと空中に止まっていた矢が一斉に地面に落ちた。

 まるで重力を思い出したかのように。


「お、おい、もうちょっとマシな起き方をしてくれよ……!」

「さっきから何を言っているのですか、お前は?」


 いつも通りのリタがそこにはいた。

 思わず抱き締める。

 その温もりを確かめるかのように。


「ひゃっ!? ど、どうしたのですか、急に!?」

「うるせぇ! 心配させやがって、このやろう!」


 矢の痛みすらも忘れて、エイトールはリタを抱きしめた。

 頬を真っ赤にしたリタも、そのエイトールの必死に何かを感じたのか抱きしめ返してくれる。

 矢の痛みすらも忘れて、その温もりを堪能する。

 強く、強く。

 まるで自分の身体に溶かすかのように、エイトールはリタを抱きしめた。

 だが、その抱擁ほうようは長く続かない。


「ふふっ、うふふふっ。リムも面白い力を隠していたのねぇ」


 困惑を浮かべていたオフェーリアだが、今はもう無邪気な笑みに変わっている。

 そして再び手を挙げて、騎士たちに合図を出した。

 呆然としていた騎士たちも、それで我に返り矢を構える。

 マズイと、エイトールは思った。

 先ほどのリタの異能は奇跡だった。

 そして、奇跡とはそう何度も起こるものではないことを知っている。

 それに、あまり奇跡に頼ることをエイトールは好まない。

 リタを守るのは自分だと、もう心に決めたはずだ。

 覚悟を決める。

 一か八かの可能性に飛び込む覚悟を。


「リタ、死んだらごめん」

「えっ?」


 抱きしめたままのリタを抱えて、エイトールは駆けた。

 最後の力を振り絞った全速力。

 向かう先は、真横の壁。

 煉瓦れんが造りの正門の壁へと。


「おらぁあああああああああああああっ!!」

「いっ、ひゃぁああああああああああっ!?」


 渾身の力で壁を蹴り抜いたエイトールは、そのまま突っ込んだ。

 プルーム邸は絶壁の上に建っている。

 つまり、その壁の先は深い谷。

 僅かに見えた奈落の川へと向かって、エイトールはリタを抱えたまま跳びこんだ。


「嘘でしょ!?」


 オフェーリアは驚きの声を上げた。

 驚きながらも、嬉しそうだった。

 まだ楽しませてくれるのかと、エイトールの諦めの悪さに喜んでいた。

 壁の穴へと駆け出したオフェーリアは谷の底を眺める。

 ぼちゃんっ、と水音が聞こえた。

 生きているかどうか――。

 流石にそこまでは見えなかったが……。


「オ、オフェーリア殿下……追手を出しますか?」

「いえ、いいわ。今日はもう楽しんだから。それに、あの傷でこの高さから飛び込んで無事だとも思えないし」


 そして、心の中では別のことを思う。

 ――生きていたら、それはそれで面白そうだもの。

 指示を仰いだ騎士は、皇女の腹の中までは読めなかった。

 或いは、読めていたとしても、その考えを止めることなど叶わない。

 残っていた皇族――。

 リムスフィア殿下の存在は奈落の底へと消えた。

 皇帝の崩御ほうぎょから長く時間が経ち、国民も不安を抱いている。

 皇帝の席は、いつまでも空けているわけにはいかない。

 つまり――。


「日が昇ったら教会に行くわよぉ。玉帝ぎょくていの儀を執り行うわぁ」


 周囲にいた騎士たちが一斉に膝をついた。

 ここにいる皇女は、次代の皇帝だ。

 帝国の王だ。

 それを止めることのできる人間はもう、この場にはいない。


「とりあえず、わたくしの勝ちみたいねぇ?」


 長い指先をぺろりと舐めながら、オフェーリアは谷底を眺める。

 生きているかもわからない妹と――。

 そんな妹を守ろうとした異国の王子に、勝利の宣言を呟きながら。

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