第30話 王子様は諦めない
エイトールが足を振り上げる。
空の浮かぶ月を蹴り
「おらぁあああっ!」
そして降り下ろされた渾身の
人力の地震が屋敷全土を揺らし、屋根で弓を構えていた騎士が数人落ちる。
無数の悲鳴と、絶え間ない動揺がざわめきを生み出し――。
そうして舞い上がった土砂が周囲の視界を盛大に
「……
不可解に眉を寄せながら、グリスは大剣を構える。
土煙の中からいつエイトールが現れてもいいように。
だが――。
「……違う。逃げたか」
煙が晴れ、そこに残っていたのは深々と踏み込まれた足跡。
すぐにグリスは首を回し、遠い建物の屋根に逃げるエイトールの姿を捉えた。
「逃がさん」
グリスは地面を蹴った。
大剣を抱えているとは思えないほどの俊敏さで。
***
「エイトール、逃げるのですか!?」
「に、逃げてねぇよ! 戦略的撤退だ!」
「それを逃げると言うのでは?」
「世間ではそう言うらしいな! 俺の中では違うから!」
再三の確認となるが、エイトールは限界に近かった。
崖登りに壁登り、そこから無数の騎士たち相手に大立ち回り。
昨日、寝ていないのも響いている。
リタを抱えていなければとっくに全てを投げ出していただろう。
「くっ……!」
「エイトール!?」
エイトールが顔を顰め、腕の中のリタが悲鳴のような声を上げる。
リタは気づいてしまった。
腕に回したエイトールの背中。
そこから、ぬるりと大量の血が溢れ出していることに。
「心配すんな! 俺は無敵だ!」
「で、でも……」
「皇帝になるんだろ! だったら俺を信じろ!」
「……信じてます。もうとっくに。エイトールの全てを」
リタの真紅の眼差しが、エイトールの顔を射抜く。
それだけで、乾いていた心に力が湧いてくる。
ボロボロだった身体がもう少しだけ無茶に応えてくれる。
エイトールは笑った。
リタの信頼が嬉しかったから。
「でも、お前でもあの騎士団長には勝てないのですか?」
「……お前を抱えながらだと勝てない、と思う。それに敵はあいつだけじゃねぇしな」
「そんな、エイトールでも勝てないなんて……」
「か、勘違いすんなよ! 一対一だったら絶対に俺が勝つんだからな!」
「意外と負けず嫌いなのですね」
「むっ!?」
と、そこでエイトールが跳躍する。
一瞬前までふたりがいた場所に、ズドドドドッと矢の雨が刺さった。
三階建ての建物の屋根から地面に跳び下り、再び走り出す。
目の前に騎士の集団――!
「リタ! すまん!」
「えっ……きゃぁああああああっ!」
エイトールはリタを上空へと投げ飛ばした。
突然の奇行に、相対する騎士たちは上を向き――。
瞬間、エイトールの持つ
「ふっ!」
エイトールだけが動ける、超高速の世界。
呆然と上を見上げている騎士たちの腕に剣を突き刺していく。
急所を狙わない自分の甘さにちょっとだけ舌を出しながら――。
どぱっ。
一瞬遅れて、騎士たちの腕から同時に
悲鳴と共に地面に転がる騎士たち。
その中で、エイトールは落ちてきたリタを腕にすっぽり迎え入れた。
「おかえり、お姫様!」
「もうっ、乱暴な王子様がいたものですっ!」
そしてエイトールはすぐさま走る。
目的を見失うな。
こちらの勝利条件はリタを帝城まで連れて行くこと。
皇帝にさえなってしまえば、帝国所属の騎士団は全てリタのものとなる。
オフェーリア派の勢力がどれほど強くとも負けることはない。
そのはずだ。
「見えました、正門です!」
「よし! 行くぞ、リタ!」
エイトールの足に追いつける敵などいない。
つまりプルーム邸から逃げ切ることができれば、勝利はもう目前だ。
歓喜の予感に心を浮き立たせ、エイトールは足を早める。
正門へと一直線に駆け出す。
……油断していた。
「――っ! やべぇ!」
「……え?」
プルーム邸の正門は、教会の講堂のような長い道造りになっている。
その真ん中で、エイトールはそれに気づいた。
柱の影から、二階に位置する吹き抜けの手すりから。
無数の騎士が、その手に持つ弓が。
エイトールたちを待ち構えていたことに。
「――
誰かの号令と共に、矢が一斉に放たれる。
「――やられるかぁ!」
しかし、咄嗟の反応。
驚異的な足首の強さで、エイトールは勢いを止めずに後ろに飛び退く。
ほとんどの矢は避けることができた。
しかし、伸びる射線を描いていた数本の矢はエイトールたちに迫り――。
そこでエイトールはリタを庇いながら背中を見せる。
「ぐぁっ!?」
「エイトール!」
背中に矢が刺さる。
深々と刺さった割には、あまり血は出なかった。
既に多く出血を許しているエイトールの身体だ。
血の巡りが悪くなっていたとしても不思議じゃない。
「……やべぇ。頭がクラクラしてきた。リタが三人に見えるぞ?」
「しっかりしてください! 私はいつだってひとりですよ!」
言いながら、リタは悔しそうに顔を歪める。
また守られてしまった。
戦える力がない自分の無力が悔しい。
リタの歪めた顔を見て、エイトールは笑顔を見せる。
「そんな顔すんなって。俺なんか心配したって損だぞ? 俺は無敵だからな!」
「……嫌です。心配くらいさせてください」
「我儘だなぁ。もしかしてリタって俺のこと大好きか?」
「大好きですよ。もうとっくに。心の底からお前のことが大好きです」
「お、おおう……突然の直球パンチだな。照れるぜ」
そんな軽口で痛みを誤魔化しながら、エイトールは顔を上げる。
正面突破は難しそうだ。
とにかく今は屋敷に戻り、隙を
そう思って身体を反転させるが――。
「もう逃さないぞ。クレティカの王子」
「……くそっ!」
そこにはいた。
大剣を構えた騎士グリスが。
これにはエイトールも困惑の顔を隠せない。
正面には騎士団長、後方には矢の嵐。
道の真ん中で挟まれたエイトールたちに逃げ場はない。
(どうする……どうすればいい……!?)
エイトールは考えた。
必死に考えた。
しかし良案は見つからない。
生き残るための手段が見つからない。
こうなれば
しかしどっちに?
騎士団長か? 弓矢の雨か?
どっちに進めば生き残る可能性が高い?
どっちの死地がまだマシだ?
諦めるな。
諦めるな。
まだ、負けてない……!
「エイトール」
声が。
リタがこちらを見上げ、まっすぐな視線を向けている。
「私はお前の選択を信じます」
揺らがなかった。
声も、視線も、そこに込められた信頼も。
敵だらけの戦場で、時が止まったかのようにリタは微笑んだ。
「ずっと一緒です。いつまでもなんて甘い夢は見れなくても……それでも、今だけはお前のそばに私がいます」
ぎゅっ、と背中に回した腕に力がこもる。
その温もりで、自分の居場所を主張するかのように。
「だから行きましょう。私の王子様」
「……っ!」
リタの声に、エイトールの心が熱く燃えた。
覚悟が決まった。
選んだのは、弓矢の方角。
やはり目的と逆方向――逃げるのは
果てるのならば、せめて前を向いていたい。
その決断に迷いはなかった。
リタの声が、背中を押してくれたから。
「行くぜ、リタ! 俺はまだ何も諦めていねぇぞ!」
「はいっ、行きましょう、エイトール!」
もはやひとつとなったふたりの心。
だからこそ、絶体絶命の状況でありながらも彼らは笑える。
笑えるだけの強さがある。
その無謀とも思える勇気を前に――。
しかし無情にも、騎士たちは弓を構えた。
ぎりぎりとしなった弦が、エイトールたちに向いている。
避けれるか? かわせるか?
違う。
避けるんだ。かわすんだ。
そうして駆け抜けて、屋敷を脱出して、リタを帝城まで連れて行く。
覚悟を決めたエイトールは足に力を込める。
しかし、その瞬間――。
「――こんな終わり方は面白くないわねぇ」
戦場に響いた、場違いなほどに甘い声。
そうして現れた美女が、戦況を再び
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