第4話 「田中洋子」

 室谷むろやコーポレーションの事務員、田中洋子の午後は優雅だった。


 午前中は確かに目の回るような忙しさだが、伝票や発注のメール、FAXを処理してしまえば、営業マンが出て行った後のオフィスは洋子にとって天国となる。

 同じく事務の女の子二人と、お茶を飲みながらおしゃべりに興じ、仕事といえば時折かかってくる電話の応対ぐらいであった。


 しかし、この日は少し違った。


 午後三時半。

 営業マンはみんな外回りに出ており、がらんとした事務所内には気がねする相手もいない。洋子たち事務員三人は、洋子のデスクにスナック菓子を持ちより、いつものように無駄話に花を咲かせていた。


「でもさぁ、最近すごいよね、石田課長」


 最年長の倉野ゆかりが言う。

 彼女はもう入社15年になるベテランで、入れ替わりの激しい室谷コーポレーションでは最古参といっていい。


「ねー。木下さんちょっとかわいそうですよねー」


 と、野田恵里があいづちを打つ。

 この恵里と洋子はほぼ同時期の入社で、年も同じ25歳ということもあり、休みの日も一緒に出かけるほど仲がいい。


「まあでもあの人、ホントにやる気なさそうだしね」


 洋子が続ける。

 実のところ、洋子は木下のことがあまり好きではなかった。一生懸命さが感じられない、というのがその理由だ。とは言え、石田課長のやり方にも、洋子は賛成しているわけではないのだが。


「恰好の標的ですよねー、あの人」


 ポテトチップスを口に運びながら恵里。


「でもあの人だけじゃないのよねぇ。今まで何人も…」


 そう、ゆかりが言いかけたときだ。

 バンッ! と大きな音を立てて、事務所のドアが開いた。


 三人がはっとして振り向くと、今さっき話題にしていた木下がそこにいた。

 営業が帰ってくるのは、通常夕方五時ごろのはずである。何かトラブルでもあったのだろうか? 洋子は一瞬そう考えたが、すぐにそれを打ち消した。木下の表情が、ニヤニヤと笑っているように見えたのだ。


 木下が帰ってきたことで、洋子たちの楽しみは中断された。ゆかりと恵里はそれぞれの席に戻って仕事を始める。なんとなく木下を気にしながら。

 洋子は、三人がコーヒーを飲んでいたマグカップを洗うため、給湯室へ向かった。


 給湯室は、オフィスを出て廊下の突き当りを右に折れたところにある。洋子がちょうど、2つ目のカップを洗おうとしたときだ。


「キェエエエエエエエエエエ!」


 耳をつんざくような、甲高い、南国の巨大な鳥を思わせる叫び声が、洋子の耳に飛びこんできた。

 なんだろう…オフィスの方からだわ…。洗いかけのカップもそのままに、洋子は小走りで廊下を戻る。


 洋子が開けっ放しのオフィスの入り口に辿り着くと、ドアにもたれかかるように座り込んだ倉田さゆりが、口を両手で抑え「また…また…」とつぶやいていた。

 恵里は、自分の席に座ったまま、凍り付いたように一点を見つめている。


 その恵里の見つめる先に、床にぶちまけた書類の上に這いつくばり、奇声をあげ、よだれを垂らしながらのたうちまわる木下の姿があった。


 洋子に気付いた木下は、四つん這いの態勢で動きを止めると、顔だけを洋子のほうへ向けた。そして口の端を大きく歪めてニヤリと笑った。その表情は、悪意に満ちていた。


「ギャーーーーー!」


 洋子は悲鳴をあげ、気を失った…。

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