第3話 「喫茶チロル」

 ドアを開けると、カランカランと来客を知らせる鐘が鳴る。

 その音を聞いてやっと、木下は心の緊張を解くことができた。


 木下の行きつけの喫茶店「チロル」。


 ここは木下が外回りをサボるとき、いつも利用する店だった。

 チロルは会社からも離れているし、地下にあるため入ってしまえば見つかる心配はほとんどない。携帯の通知を切ってしまえば、ひととき完全に会社から離れられるのだ。

 四人がけのテーブルが二つとカウンターだけの狭い店内。照明も、まるで木下をかくまってくれるように仄暗い。それだけでも、木下は落ち着くことができた。


「あ、いらっしゃい」


 カウンター席に座った木下を、ママが迎える。


「またお仕事サボってんのねー」


 おしぼりと水の入ったグラスを置きながら、ママが言う。その言葉には、いたわるような優しさがあった。


「ホット」


 午後二時半という半端な時間のせいか、店内には木下以外、客はいなかった。


「お仕事、たいへん?」


 ママはカウンターにコーヒーを置きながら言った。


「仕事っていうより課長がね…」


 木下は待ってましたとばかりに話し出す。


 実はこのママの存在が、木下がチロルに通う理由だった。


 チロルのママは不思議な魅力を持っていた。普段はさほど口数の多くない木下でも、このママと話すときは妙に饒舌になってしまう。単なる聞き上手では片付けられないほど、木下は心をさらけ出し、癒されている自分を感じるのである。

 年は三十代後半だろうか。化粧っ気はないが、整った顔だち。ほのかな色気の漂ういい女、である。


 木下はママのことを何も知らなかった。名前さえも。しかしそれが逆に、彼女に自分をさらけ出せる要因かもしれなかった。だからあえて、木下はママの素性を探るような話はしなかった。

 ただ自分のことを聞いてもらうだけで満足していたのだ。


「その課長、イヤな奴なんだよ。今朝なんて夢に出てきてさぁ」


 今朝見たイヤな夢も、ママに話すと笑い話になる。木下は心のもやもやが晴れていくのを感じていた。


「そんなにイヤなら辞めちゃえばいいじゃない」


 ママはこともなげに言う。こういう言葉に木下は癒されるのである。


「いや、無理だよ。うちの会社、なんだかんだ言って辞めさせてくんないんだ。次が入ってこないし、部下が辞めると課長の査定が下がるんだってさ」


「ふーん」


「ホントに、アタマ狂いそうだよ、会社にいると」


 優しい言葉が欲しくて、ついつい大げさな物言いになる。


「いっそ、本当にアタマ狂っちゃえばいいのにね」


「え?」


 カランカラン、カラン。

 そのとき、来客を告げる例の鐘が鳴って、ママとの会話は中断された。


「いらっしゃいませぇ」


 ママが新たな客におしぼりと水を出しにいく。

 その様子を見るともなしに目で追いながら、木下の頭の中には、さっきのママの言葉がぐるぐると回っていた。


 本当にアタマ狂っちゃえばいいのにね…本当にアタマ狂っちゃえばいいのにね…本当に…。


「そうか、そりゃ面白いかもな…」


 木下は、口の端に笑いを浮かべてそうつぶやくと、伝票をつかんで立ち上がった。

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