第2話 真夏の農道

 稲の揺れる真夏の農道を、母は日傘を差して、幼い私は麦わら帽子を被って歩く。

 農道から山裾まで田んぼは広がり、細い葉の上を光が滑っていく。波になって、手前から奥へと流れていく。アクリル宝石を敷き詰めたような、透き通ったエメラルドグリーンの光。

 その光を目線で追うと、稲の明るい緑は山肌の濃い緑へと変わり、やがて、くっきりとした空の青へと変わる。旅をするように、すうっと薄雲が伸びる。

 暑い。肌が焼ける。薄手のワンピースは軽い。風で流されるくらいに。

 母と手を繋いでいると、いつかこの当たり前の幸せが、床に落とした硝子細工のように粉々に砕け散ってしまいそうな気がして、いつも不安に襲われた。

 白くすらりとした母の手。指先に慎み深く伸びている爪。突然失ってしまいそうで怖かった。

 母は幼い私の他愛ない話を長々と聞いてくれた。私が保育園で体験したことやお友達と遊んだことを語ると、うんうんと、微笑んで頷いてくれた。

 怒りも悲しみも落胆も表さない人だった。ただ色白の頬に弱々しい笑みを浮かべるだけだった。

 農道だから、時折軽トラが通る。田んぼの脇に止まっては、運転席の窓から顔や腕を出し、田んぼを眺めていく。農業用水路に滔々と水が流れていく。

 一本道をずっと歩いて行くと、山と山の細い隙間に、ローカル線の線路が敷かれていた。

 突然、辺りにかんかんかんと鈍い警報音が鳴り、おもむろに遮断機が下りた。

 私と母は立ち止まり、一つしか車両のない銀色の短い電車を見送った。まるで小説の中を覗くように、電車の車内を窺う。五、六人、人の姿が見えた。

 この電車は、どこへ行くのだろう。きっと、私の知らない町だろう。もしかしたら、時空を越えて、遠い未来や果てのない銀河の先まで行くのかもしれない。

 遮断機が上がって、母が私の手を引く。踏切を渡って、ふと後ろを振り返ると、今までの幼い私がさようならと手を振っていた。

 ああ、そうなのね。と、私は思った。

 夕方になり、夜が来て、眠って、朝が来たら、私は大きくなっているんだ。もう、子供には戻れないんだ。

 私は母に手を引かれ、稲の海の真ん中を歩いた。

 夏空を透かした、青い薄雲に導かれて。

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