第24話 日常のジャンル1

 中央公園から車を飛ばして松戸市の端っこ、矢切駅付近にある大きな施設裏手に停車させた。まだ応援の警察官は到着していないようで、急を要する為これまた俺と久内刑事のペアで潜入することとなった。



 拳銃のグリップを叩き付けててきとうな窓を割る手段は強盗のようで気が引けたが、そうは言っていられない。東儀さんが無事なら後で罰則でも何でも甘んじて受けてやる。なにより彼女の安全が俺にとっての最優先事項であり、久内刑事は犯人Bを捕まえることを優先する。事前に車内でそれぞれの役割というものを決めておいた。



 簡易キッチンと長机、テレビや冷蔵庫が置かれていることから休憩室かなにかの部屋だ。扉をそっと開けて長廊下に誰もいないのを確認した。窓を叩き割った際には結構な音が響いたことだろう。犯人Bに気付かれて逃げ出すならそれでいい。久内刑事には悪いがそうなると東儀さんを運ぶ余裕なんてあるはずもなく、単身で逃げるはずだからだ。



 キュッキュと鳴る床と独特な匂いが心拍数を上げていく。一つずつ部屋を慎重に確認する久内刑事のジレったいこと。「先に行きます」彼の制止を無視して階段を駆け上がった。一つ一つ勢いよく扉を開けて行き、「どこにもいない」ただし場所は間違っていないはずだという自信はあった。



 一階から発砲音が聞こえた。二度三度と施設内に反響する耳に痛い空気の振動。来た道を全力で戻って、「久内刑事!?」長椅子が幾つも並んだひらけた場所で壁に背を付けて座り込んでいる彼に駆け寄った。



「くそッ、逃げられた。あいつはあの厳重な扉から出てきた」



 彼の指先はカウンター越しにある小さな空間の隅を示す。懐中電灯を向けるとその場に不相応な半開きの鉄製の扉。懐中電灯をもう一度久内刑事に向ける。



「久内刑事……」



 腹部に包丁が突き立っていた。元の長さは判らないが、家庭で使う平均的なものから考えて、十センチは埋まっていそうだ。



「自分の、優先事項を全うしろッ!」



 睨み付ける久内刑事に、「救急車を呼んでください。貴方に死なれたら、俺が犯人最有力候補になってしまいます」無理に笑って彼に背を向けた。



 扉の中は階段になっていた。地下へと続く階段だ。錆び臭い階段を降りきるとまたしても鉄の扉。鍵は開いている。この奥に東儀さんがいるという直感が手を震わせる。シュレディンガーの猫なんて馬鹿げた考えだ。



――彼女は生きている。



 彼女にこんな猟奇事件ジャンルは似つかわしくない。ジャンル違いの悪夢を見ているだけなんだ。



 扉を押し開くと、血の嫌な臭いが不可視の悪魔のように俺を抱き込んだ。部屋は真っ暗だ。ただ嗅覚だけが揺るぎなく、信じたかった結末を塗り替えていく。扉の直ぐ近くに照明と思しきスイッチ。三回の明滅後に部屋全体があらわになる。



 赤黒い床。天井から下がる白かったであろうシーツが茶色く変色している。事務机には数人の写真が並べてあった。恐怖で顔を歪めて何かを叫んでいる表情。隣にはその人物から首が消失している写真。二枚一組で並べてあり、「歪みきっている」何枚かの茶色のシーツを手で除けながら奥に進むと、ようやく見つけた。



「東儀さん!」



 俺は彼女に縋り付く。「すまなかった……。俺が、俺がちゃんとしていなかったから、キミをこんな目に遭わせてしまった」むせびながら俺は椅子に固定されている彼女の手足を縛る紐を解き、倒れ込んできた彼女の身体を抱きしめた。



 彼女の柔らかな癖毛を撫でながら、「大丈夫。もう、大丈夫だよ」嬉しさと恐怖がない交ぜになった声で囁き続けた。



「セン、セ……?」



 意識が戻った東儀さんは俺の服を弱々しく掴んで、寝ぼけたような甘い声で喉を鳴らしながら男性として頼りない胸元に顔を埋め、「来てくれた。大好き」脱力する彼女をお姫様抱っこしながら地下部屋を出た。



 一階に戻るとガラス戸の向こうから救急隊や警察官が駆け寄ってくる。久内刑事は俺が向けた懐中電灯の明かりを鬱陶しそうに、それでも満足げに親指を立てた。強行手段でガラス戸を破った救急隊は重傷の久内刑事を担架に乗せた。



問題はここからだった。



 重傷の警察官の傍で未成年の少女をお姫様抱っこしている警察官でもない俺は、事情を知らない彼等が見たらどういう風に映るかなんて考えるまでもない。



 俺に拳銃を向けると、「その子を離して両手を挙げろ!」完全に犯人扱いされる始末。この人生的危機の誤解を解いてくれる久内刑事はもう救急隊の手によって救急車に乗せられているし、東儀さんも意識を失っている。



 凄い剣幕で睨まれて余計な事をすれば発砲されかねないので、ひとまず東儀さんを長椅子に寝かせてゆっくりと両手を挙げた。無抵抗を主張しているのに彼等は俺に罵詈雑言を浴びせながら手首を背後に捻り上げて制圧している。あげくには予想していた通り手錠まで掛けられ、「話は署で聞かせてもらう」これまたドラマ等でお約束の決め台詞を本物の警察官から生で聞かされた。



――今頃、犯人B……、神崎富美恵は遠くに逃げて身を潜めでもしているのかな。ほとぼりが冷めたら再度犯行に手を染めるか、逃げるか。



 久内刑事の意識が戻れば警察は神崎富美恵を連続首切り事件の容疑者として、全国に指名手配するだろう。彼が捕まるのも時間の問題だが、本当の問題は小山内玲威の消息だ。小山内玲奈と祖母を殺害して消息を絶っている彼女は今頃、何処で何をしているのか。彼女の方も久内刑事から説明してもらうとして、俺の拘留期間と作家業の締め切り期日が気になり始めていた。



 せめて担当編集者にくらいは事情を説明しておきたいのだが、もちろん容疑者として連行される俺にそんな権利はなく、隣に座る強面の警察官からは聞くに堪えない、よくここまで他人の存在否定ができる言葉をスラスラと言える語彙力には驚かされた。感心しながらその言葉や貴重な体験を吸収してしまおうという、作家としての職業病のようなものが発揮してくれていた。



――拘留所ってどんなところなんだろう。石けんとかハンドソープくらいは常備してあるかな。



 隣の彼が言う豚箱に留置されることさえ楽しみになってきた。SF作家としては必要の無い体験かも知れないが、万が一の為にその拘留期間をせっかくなら楽しんでおこうというプラスに思考は完全に向いていた。



 途中、顔に出ていたのだろう。「なに喜んでんだよ。きもちわりぃ奴だ」猟奇殺人者とされる俺にまるで別の生物へと向ける眼で忌々しそうに睨む。



 ドラマで見たような小さな窓突きの鉄扉の中は畳が四畳敷かれた部屋に、やはり監視窓がついた衝立とトイレ。残念なことにハンドソープも石けんも常備されていなかった。囚人服も所々ほつれていたり破けている。なによりちょっと臭いのだが、文句の一つも言わせない威圧的な警察官たちに囲まれているので、おとなしく房に収監された。



 最初の二日間までは何事もなく過ごせた。一週間が過ぎると退屈と鬱屈が募って精神的に悪環境のこの部屋が恨めしく、大声で歌を歌えば警官にどやされる。映画が見たい。鉛筆と紙があるので小説を書こうと思えば書けるのに、溜まりに溜まったフラストレーションのせいで意欲も湧かない。ただ娯楽が欲しいという欲求ばかりが募っていたタイミングで面会に誰かが訪れたようだった。



 遊園地のチケット売り場のように小さな丸穴がいくつも空いた透明の板。三人の男女が俺を見て唇を噛みしめながら立ち上がった。東儀さんとその両親だ。



――良かった。東儀さんはもう大丈夫なんだね。



俺は覚悟を決めて頭を下げた。



「この度は娘さんを危険な目に合わせてしまって申し訳ありませんでした!」



 頭を下げ続ける俺に、「顔を上げて欲しい。まずは話そう、な?」東儀さんのお父さんが優しく声を掛けてくれた。



 対面で座ると、「ごめんなさい、センセ。私が勝手に行動したから、私が馬鹿なことしたからセンセが捕まっちゃった……。ごめんなさい、本当にごめんなさい!」涙声で、実際に涙を流しながら衝立に掌を当てた。



「信じてくれないの。警察の人にセンセは違うって訴えたのに」

「俺とキミは親しかったし、庇っていると思われているんじゃないかな。久内刑事が眼を醒ませば、俺の無実を証明してくれるよ」



 俺は笑って、笑ってあげることしかできなかった。思いつかなかった。こんなんで彼女の自責の念が少しでも軽くなるならいくらでも鷹揚に笑って見せるつもりだったが、彼女の表情は一向に晴れる様子もないのが残念だった。



「あ、そうだ。一つお願いがあるんだけどいいかな。弟子として師匠を助ける大切なお仕事なんだ」



 あっけらかんと言う俺に、「なに? 何でも言って」涙を裾で強く擦って、真っ直ぐな眼差しで俺を見た。



「今から伝える電話番号は俺の新しい編集者で、彼に俺の事情を説明してほしいんだ」

「あ……、たぶん必要ないと思う」



――ああ、そうか。



 ニュースで俺が首切り殺人事件の犯人として報道されているか。俺が人殺しだと世間は周知しているのか。ちょっと寂しい気持ちだ。殺人犯が書いた小説なんてもう誰も買ってくれないどころか、出版社にまで迷惑をかけてしまったのが心苦しい。



――やばいな。辛くて泣きそうだよ。



 こんな所で泣くもんか。



「そっかぁ。そうだよね、世間を賑わせた犯人が捕まったんだから、大々的に報道されるよね」

「違うよ! センセはそんなことやってないんだから、気にしなくて良いんだよ!」

「優しくて心強い言葉だね」



 すると、面会者側の扉が開いて警察官が新たに三人の男性を連れてきた。



 これまた大人数だ。面会の人数制限ってないのかな、そんな疑問が頭に浮上すると同時に、ああ良かったという気持ちで自然な笑顔が、薄く反射する衝立に反射した。



 久内刑事、海津原聖人君、須藤君の三人だった。



 滑稽な絵画を眺めるように俺を見下ろす聖人君が、「作家先生がそんな場所に入ってまで仕事をサボりたいのかな? いくら作家業が大変でもさぁ、自分の仕事には責任を持つものだと僕は思うけどねぇ」楽しそうに持ち上げたであろう口角が、注視しなければ判らないくらいにヒクヒクと痙攣していた。



――そうとうにイラついてるなぁ。



「ちょっと! なんですか、というか誰ですか!」



 もちろんそんな不遜な男に噛みついたのは東儀さんで、「事情も知らないくせに、センセは小説を書くことに命を燃やしてるんだ! 勝手なこと言わないでよ」彼女の言葉が本当に嬉しくて、でも、もちろん聖人君も本気でそんな事を思ってはいないことくらい俺は見抜いている。



「此処を出て小説を思いっきし書きたいよ。休憩がてらに酒を飲みながらDVDを見て、また書きたい」



 正直なこの言葉を聖人君は鼻を鳴らして、「なら出てきなよ。キミはもう自由なんだからさ」この言葉に俺は頷いた。



 久内刑事が事情を説明してくれたのだ。俺は感謝を込めて久内刑事を見ると、「いや。俺の証言だけでは不十分だった。大々的にニュースで報道もしていたから、なおさら後に引けなかったんだろう、上の馬鹿共は」予想を裏切る彼の言葉に俺首を傾げた。



――じゃあ、誰が?



 大きな溜息をついた聖人君が、「千丈電子セキュリティーのご令嬢に協力を仰いで、キミの無実と神崎富美恵の証拠を提供して貰ったんだ。それでも頑なに頷こうとしないもんだから、僕が個人的に脅しをかけた」誰でも聞いたことがある大企業の名前もそうだが、警察上層部を脅せる情報つよみを持つ彼を敵には回したくない。



「今回の事件、聖人君には甘えっぱなしだね。本当にありがとう」

「これ以上、この事件についてはもう付き合う気はないから、後は知らないし、勝手に犯人捜しでも何でもすればいいさ」



 一人立ち去ろうとしたが一端足を止めて、「ああ、そうそう。忘れるところだったよ。東儀沙穂さん、お友達のことは本当に残念だったね。守れなかったんでしょう? 約束」言い残して面会室を出て行ってしまった。



――約束?



 まったく余計な一言が多い若者だ。ご両親が東儀さんを抱きしめていて顔はよく見えなかったが、うつむきながら口角を引き結んでいるのはチラリと見えた。



 警官が気まずそうに、「もう出ていいぞ」俺を何処かへ連れて行く。預けていた荷物や着替えを確認してようやく留置場から晴れて出所となった。ああ、素晴らしい快晴。ああ、外の空気が上手い。あたりまえに生きている喜びを初めて実感できた。



 警察署の前には聖人君を除くメンバーが出迎えて、「おかえりなさい」いつもの調子を取り戻した東儀さんが笑顔で迎えてくれた。



「ああ、うん。ただいま」



 東儀さんのハグに綻んだ表情筋はいまの俺では制御が利かない。彼女の体温が厚手のコートやマフラーより温かい。体表の温もりよりなにより心が温かい。手が勝手に柔らかな彼女の癖っ毛を撫でていた。



「帰ろうかな。アパートに」



 失踪した神崎富美恵と小山内玲威を追うのは警察の仕事だ。俺は作家として自分の日常に帰り、東儀さんも学生としての日常に帰る。それぞれが生きるジャンルというものがあるんだから、他人の都合でソイツのジャンルに引きずり込まれるのはもう御免だ。



「降旗先生の出所祝いなんてどうっすか。もちろん海鮮丼パーティーで!」



 担当編集者の提案に一同が笑い声を上げた。



「久内刑事の退院祝いを兼ねてということなら、俺は構わないよ」


 彼も巻き込んでやろう。



――まずは部屋の掃除から始めないと全員が座る場所も無いなぁ。



 移動は久内刑事と東儀家の自家用車を使ってアパート近くのパーキングに停車させた。久しぶりに帰る我が家にホッと息をついて全員を部屋に招いた。



 久内刑事なんてこの部屋の惨状を見て、「整理整頓のできる嫁を貰った方がいいな、これは」なんて失礼極まりないことを言って、「あ、はい! じゃあ、私第一候補で」東儀さんも乗っかって元気よく挙手をする。お陰で東儀さんのお父さんからは敵意の籠もった眼で睨み付けられるわけで。



「私は賛成ですよ。娘のために一生懸命になってくれる降旗さんなら信用できますし、ね?」



 火に油を注いでくれた奥さん。



 まったく日常というのはこうも賑やかだっただろうか。



「あれ、降旗先生。ポストに何か入ってますよ」



 まあ一週間も家を空けていたのだから投函物だって多いだろう。



 しかし、彼が手に持っていたのは一枚の原稿用紙だった。



――ああ、まだ俺は。



 日常に返してもらえないようだ。

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