第2話 作家師弟2

 休日の土曜は学生であれば部活に精を出し、友人たちと遊びに出掛けたりする青春を楽しんで然るべき、と担任は普段から鬱陶しい熱を込めて生徒わたしたちに訴えていた。学生だからできること、大人だからできること、今の自分が最大に人生を謳歌する選択を自分で選んで歩いてほしいという彼の言葉通り、羽毛布団を頭から被って冬の寒さを凌いでいます。



 最上階角部屋の冬期は寒いのです。自室はルーフバルコニーに面していて共有廊下とバルコニー側の二面に窓が付いているので余計に寒さのダブルパンチ。夏もまた直射日光に照らされて冷房の利きが弱いのか、と思えるくらいに暑い。



 布団から腕だけを出してエアコンのリモコンを探してみる。指先の届く範囲には無いようだ。布団を羽織って身震いしながら身を起こし、蛇が獲物を丸呑みするが如くの俊敏な早業で、勉強机に散らばる原稿用紙に埋もれるリモコンへと手を伸ばして暖房を強風で付ける。部屋には小さなテレビとラジカセ、それと趣味の時代小説が本棚にぎっしりと並んでいるだけの部屋。とてもではないけど今時の女子高生、というより女の子の部屋とは言い難い。唯一の女の子要素といえばカーテンレールに引っかけた学生服くらいのもの。



――部屋が暖まるまでに顔を洗って……、あとは、なにしよう。



 まだ頭が覚醒しきってはいないようで、思考と行動にズレが生じている。



 ひとまずは洗顔でもしてシャッキリとしよう。いざ洗面所に向かうとお父さんが機嫌良く髭を剃っていて、「おはよ、お父さん」欠伸をしながら後回しにしてリビングへ顔を出した。すでに暖気で室内は冬の寒さから隔離され、キッチンではお母さんが朝食のフレンチトーストを作っている。



「沙穂、おはよう。昨日の夜は何処に出かけていたのよ、あんな遅い時間に。もしかしてコレ?」



 小指を立てて笑うお母さんに、「そんなんじゃないって。雪が降ってたから散歩したくなっただけだってば」嘘ではなく、余計な部分を言わないだけに留めた。



「小説を読んだり書いたりするのはいいけど、お友達ともちゃんと遊ばなきゃだめよ。お友達は生涯の宝なんだから。高校生になってお友達の話を聞かないけど、ちゃんとやっていけてるの? いじめられてない?」

「お母さんも先生みたいなことを言うね。あ、学校の方ね」

「そうよね。作家先生……、ええと、降幡こうはたさんだったかしら。彼はそういう事を言わなそうだものね」



 小説の先生をしてもらっている、降幡こうはた久七きゅうしちセンセは三十代半ばのいまいちパッとしない生活力が著しい独身男性。いつも注意が何処かにフワフワと飛んでいるような人で、誰かが連れ出さなきゃ、一生を部屋で映画鑑賞か小説を書いて過ごすような引きこもり気質な人だ。



 そのセンセの所に今日もお邪魔させてもらうつもりである。外に連れ出して髪を切ってもらうことにしていた。もちろん本人了承はもらっていない。その代わりにお昼は腕によりをかけて牛丼を作ってあげる予定なので、まあ大丈夫だとは思う。



「降幡君の仕事に支障が出ない程度にな。無理を言ってお願いを聞いて貰ったんだから」

「気分転換をさせてあげるのが弟子の務めだからね。休憩時間には私の書いた作品を読んでもらってるの」

「ジャンルの違う作品のアドバイスは大変そうだ」



 口周りをサッパリさせて笑うお父さんはジャージ姿だ。決まって休日の午前中は目と鼻の先にある桜通りを往復四週のジョギングが日課で、四十代後半には見えない筋肉とジャージのコーディネートはさながら体育教師のよう。本業は中野区にある電子セキュリティー会社に努めつつ、幾つかの物件の大家の副業をこなしている。大手企業に勤めているだけでも生活には困らない給料を貰っているのになぜに大家なんてやっているのか。その理由を聞くと、「好きだからかな」単純な返答。



「ほら、沙穂も着替えていらっしゃい。貴女の髪は柔らかいからよく跳ねているわよ。お父さんは先にテーブルに座って、そこに立たれると邪魔でしょうがないんだから」



 お父さんはニュース番組にチャンネルを合わせる。耳に飛び込んできたのは村瀬牧人という聞き慣れた名前だった。とっさに私はテレビへ首を回した。殺害現場が21世紀の森の公園という遠くない場所であること。頭部を欠いた遺体の無残な状態であったことを知った。儀式めいた猟奇的な事件だと報道している。



 事件の詳細を話してはくれなかった降旗センセは、いっぱいいっぱいになっていた私を気遣ってくれたのかもしれない。



「頭部が持ち去られたなんて、持って帰ってどうするんだろうな」

「村瀬さん……」



 親しかった村瀬さんの顔が脳裏に浮かぶと、リビングから逃げるように洗面所へ。冷水を頭から浴びて、嫌な考え、見たくない現実を打ち払う。ギュッと目を瞑ると村瀬さんやセンセとの楽しい記憶ばかりが浮かび上がる。何度も何度も、冷たい水が周囲に飛び散るのもお構いなく頭を激しく振った。



 自室で白衣と黒袴に着替えて気を引き締める。気持ちが落ちついてから、この後お邪魔させてもらう旨をセンセにメールで伝えた。



 モーニング珈琲を飲みながらニュースを見ている両親は向い合せに座り、私もお母さんの隣りでフレンチトーストに粉砂糖と蜂蜜をたっぷりと垂らした。「ああ、今日は稽古の日だったな。砂糖と蜂蜜はこぼすなよ」どうしてそこでお父さんは決め顔をするのか謎だ。ニュースはまだ猟奇事件について報じていた。きっと犯人は見つかる、と言い聞かせながら甘く香るフレンチトーストにフォークを刺し、前屈みになって慎重に口へ運ぶ。



――まだ、食欲とかあるんだ。私って冷たいのかな。



「じゃあ、そろそろ行ってくるよ」



 席を立つお父さんに、食事の途中でも見送るべくお母さんも一緒に玄関へ。



 ふわふわとした甘みを堪能しながら視線をベランダの外へ向けた。冬の澄んだ空気は遠くをも良く見渡せることができ、富士山と東京の街並みが並んで眺められる。



 東京のような密集して建物が立ち並ぶことも無く、ごちゃごちゃと煩くもない平和で何もない日常に起きてしまった凄惨な殺人事件。まだ犯人はこの見渡せる町の何処かに潜んでいるのかもしれない。考えればそれだけ恐ろしさと憎しみが湧き、せっかくの美味しい朝食も味が無くなってしまう。



 最後のヒト欠片をお茶で流し込んでご馳走様。お父さんの食器とまとめて流し台に運んで水に浸けておく。「あまり遅くならないようにね。まだ犯人は捕まっていないんだし、しばらく道場は休んだほうが」心配に表情を曇らせたお母さんに、「大丈夫だよ。暗くなる前には帰ってくるし、人通りだって多い道を選んで帰るから」まだ不安が残る表情だ。



 自室に戻って携帯を開くとセンセからの返信、『いつでもどうぞ。今日は道場に通う日だよね。終わる時間になったら迎えに行くよ。そのまま自宅まで送るから』毎度のことながら顔文字も絵文字もない簡素でつまらない文章。『今から向かいまーす』最後に猫の絵文字を連続して五匹添えて返す。ちなみに猫の絵文字には意味は無い。私が好きなだけ。



 胴着の上からお気に入りの紺色のマフラー。ショートブーツを履いた変手個ヘンテコファッション。袴にブーツという辺りは浪漫時代っぽくもある。玄関に立て掛けてある木刀を収めた竹刀袋を肩に掛けて忘れ物がないか確認をする。



――原稿よし! 木刀もよし!



 わざわざ食事を中断して玄関まで見送りに来てくれたお母さんに笑顔を見せていざ参らん。



 雪解けで辺りは水溜まりだらけ。こんな足場が悪くても日課のジョギングを欠かさないお父さんの姿勢は素直に尊敬するが、泥水で足回りを汚して帰った際のお母さんの溜息が容易に想像できた。お父さんの変わらない日課。私は今日くらいはという怠惰な甘えに巻かれてしまうに違いない。



 バス停の時刻と腕時計を確認したがバスは十分ほど前に行ってしまったらしい。次のバスまでは三十分もある。元よりバスを使う予定ではなかったから落胆もないけど、袴が汚れないかが少し心配だった。



 水溜まりを避けたり飛び越える姿は傍から見れば奇異に映っていたかも。そんな調子でT字路にぶつかる。ドラッグストラの脇道から住宅街へ。この道は四日前にセンセと歩いた道だ。密集する戸建てやアパートは古く、その中でも駅近くの新築アパート二階にある部屋がセンセの借りている一室。



 インターフォンを鳴らすと直ぐに玄関の扉が開いた。寝癖でボサボサ頭の眠たそうなセンセが、「おはよう。四日ぶり」簡単な挨拶の言葉で迎え入れた。



「おはようございます! センセ、お仕事は捗ってますか?」



 背後から元気よく声を掛け、彼は一瞬ビクッと大きく肩を強張らせ、「吃驚びっくりしたな。元気なのは良いけど、どうやら今日からお隣さんが越してくるみたいなんだ。気を付けてね、怖い人だったらなるべく関わりは持ちたくない」頭を掻きながら振り返って笑った。



「眼が冴えちゃってね。全然眠れなかったからビデオ鑑賞をしていたんだけど、映画館で観るのとじゃあ、やっぱり物足りないんだ。ホームシアターは憧れるけど、このスペースではリラックスして鑑賞もできない。それにこの壁がどれくらいの防音性を有しているのかも分からない。お金も無い、スペースも無い、機材も無い。無い無いずくしだね。無いばかりが有るってのも変な言葉だ」



 ふんわりしていて掴みどころのない形を変える雲のように、気分というよりはその場の空気に流された発言傾向のあるセンセ。



「副業の方は芳しくないんだぁ?」

「珍しくこの後に来客がくる予定なんだけど、キミにも紹介したくてね。色々と話が聞けて面白いと思うよ」



 妙に落ち着きのない笑顔だ。「女性の方ですか? 作家の……、新しい編集者?」村瀬さんの顔が浮かびあがる。「面白い人、かな。編集者はまだ決まってないけど、そろそろ付けてくれないと、俺としても困るんだよね」曖昧に言葉を濁された。



 肩を竦めて笑って見せたセンセに私も笑った。



「来客があるのなら髪を切りに行くべきでしょ。そのボサボサ髪で人に会うのはちょっと失礼だと思うし」

「無い無いずくしで、お金が無いが有る」

「お金なら私が出すよ。お昼は手作り牛丼を召し上がってもらう予定だから」

「後者はともかく、前者の方は弟子のお勤めには含まれてないよね。大丈夫、髪を切るくらいのお金ならあるし、このあとに臨時収入がしこたま入る予定だから」



 しこたまとはどれくらいなのかと聞こうとしたが思いとどまる。お金のお話に突っ込んで聞くのも卑しい。しこたまという言葉もなんだかイヤラシくて可笑しい響きだ。「時間があるときにお願いします!」話題を切り替えて、懐から取り出した原稿用紙を押し付けるように手渡す。



 ジャンルの違う作品を表情も変えずに受け取り、「面白い場所から出すね。時代劇とかでそういったシーンを観たことがあるよ。ちょっと温かいね」その場でファイルから取り出そうとするのを阻止して、「私の作品は後回し! まずセンセの身支度が優先。ほら早く顔を洗ってきてよ」背中を押して洗面所まで連れていく。



 カーテンを閉め切った薄暗い七畳ほどの空間。籠もった空気に酒やらスナック菓子の臭いが混沌と交じっていて、これ以上は気分が悪くなりそうだ。窓の右手側には大きなパソコンを置いたデスク。電源は付いていない。左手側には七段の幅の長い棚、上四段は小説で下三段はビデオでぎっしりと詰まっている。その左側にはテレビ。部屋の中央に置かれた小さなテーブルには空いた酒缶数本とビデオケース。パッケージの裏をざっと読むとタイムトラベルものだった。自衛隊が戦国時代にタイムスリップする映画を借りて見たことがあるが、あれをジャンル分けするなら時代ものなのかSFなのかどちらだろうと考えた。



――自衛隊側からしたら時代物で、戦国側からしたらSF?



 部屋の空気を入れ替えるべく窓を全開に。狭い住宅街の道が前を横断して向かい側には一軒家が建って並んでいる。密集する住宅地だとベランダ向かいに建物が圧迫して建ち、日差しの届かない物件なんてよく在ると父が言っていたのを思い出した。新築で日当たりのよい駅チカという文句なしの物件でも、場所が場所なだけに家賃はそれほど高くはないらしい。冬の冷気が室内温度を根こそぎ攫っていき、フローリングの床は足裏から染みこむしんどい冷たさだ。



「あれ、せっかくの暖気を逃がしちゃったの?」

「空気が籠っていて身体に悪そうだし、というより少し臭ったよ」

「子供の頃は寒くても薄着で外をはしゃいぎ回っていたけど、今じゃ考えられない。寒さが骨に染みるんだ、いや、軋むのかな。身が締まっても俺はきっと美味くはないと断言できる」

「悪環境で育ったお肉に品質は求めませんって。きっと、訳あり商品で安く叩き売りされるのがオチだよ」

「そこまで言われると傷つくなぁ」



 顔周りをサッパリさせたついでに着替えも済ませたセンセはズボンのポケットに財布を差し、「牛丼もいいけど、今は豚丼が食べたい気分なんだ。そっちに切り替えは可能かな?」期待するように少し弾んだ声音。工程も手間も差ほど変わらないのでその提案を聞き入れて頷いた。



「スーパーの特売とかやっていたかな。お一人様何点までっていうのがあるけど、二人で行けば安く多く手に入るからいいよね」

「いえ。センセは髪を切ってもらってください。買い物は私一人で十分ですから」



 センセお得意の顎を突き出して不満の意思表示をした。

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