第46話 春、朧月
短い春休みに桜は散って、僕たちは受験生に繰り上がった。
高校というのは受験生になるための場所だったことを不意に思い出す。入学した時に胸に持った熱意はどこで消えたのか、思い出す時には既に遅いんだ。
スタートが遅れた者は、後ろから追いかけるしかない。
但し、勝負はまだ決してない。
チリン、と済んだ呼び声が湿度を帯びた夜に響く。
――恐ろしいことに、洋は新しい自転車を買ってもらった。
買わない理由なら幾つもある。
学校は徒歩通だし、予備校も電車通学だ。
大学によってはこの先、必要になるかもしれないが、しれっと「新しい自転車が欲しいんだけど」と聞いた時の洋の親の気持ちになるとゾッとする。
洋の新しい自転車は決して高いものではなくて、高校生が普通に乗っているシルバーのママチャリだ。
特筆すべきは、反射板、反射シートがかなり過剰に貼られている点だ。
自転車を買った時の約束は更にあって、夜、出かける時には明るい色の服を着ることだ。黒い服だと事故に遭いやすい。視認性注意。
それだけ心配されてるんだ。しあわせじゃないか。心配というのは、想われているということだ。
僕も待たせないように薄いパーカーを羽織って「ちょっと出てくる」と親に告げる。
母さんが玄関先までわざわざ出てきて「洋くんでしょう? あんた、本当に気を付けてよ」と忠告される。
知らない人が聞いたら、洋がすごい悪党みたいだ。真実もあまり変わらないけど。洋は巻き込み型で、僕は巻き込まれ型だろう。
吸引力にすぐやられてしまう僕を母は心配している。それもまた。
「夜遊びばっかりしてんなよ」
「許可取ってるからいいんだよ」
ホントかよ、と僕は言いつつ、以前のようにこうして二人で会えることがうれしい。
あの時もしも、転んだところを轢かれでもしてたら、今、こんな風に新しい自転車を挟んで話なんてできなかった。
相変わらず二人きりになると無口な僕たちは、スポークの回転音も静かな真新しい自転車に闇夜の静けさを支配されていた。
息を吐いてももう白くない。
冬の大三角はそこにはない。
時間は刻一刻と、僕たちを違う方向に引き離す。僕たちは別方向に等速直線運動を続けて、宇宙を飛んでいる。
離れていく――。
いつものコンビニでコーヒーを買う。
花冷えするのでホットを。それからちょっとつまみたくてハムサンドを買った。あの、萎びたレタスが申し訳なさそうに入ってるやつだ。
先に会計して外で待っていると、相変わらずドサッと買い込んだ洋が戻ってきて、行こう、と言った。
夜の公園はあの日のまま真空パックされてたみたいに変わらない。
ただ、一本だけ植えられた桜の木に名残惜しそうにまだ花びらがちらほら残っていた。春の残骸。僕はこれを越えて行かなくてはならない。
洋のビニール袋からガサゴソと広島風お好み焼きが出てきた。つくづくわからないやつだ。守備範囲が広いと言うか。食にこだわりがないんだとしたら、理央はさぞかし弁当の作りがいがないだろう。
僕は透明なビニールを順番に引いて、三角形の白いサンドイッチを取り出す。実はおにぎりよりサンドイッチが好きなんだ。聡子も気付いてないかもしれない。なに食わぬ顔でどちらも食べてるから。
サンドイッチは具が丁寧にパンに順番に挟まれている。その丁寧な仕事を僕は愛している。
「お前さ」
口を使って割り箸をわった洋は、口の中をお好み焼きで一杯にしながら言葉を漏らした。
「なんで特進、希望しなかった?」
僕はサンドイッチのパンの、空気に触れてカサカサになってきた部分を凝視した。勿論、そんなものを見たところでどこにも答えは書いてない。
すべては心の中だ。
「要するに成績が足りなかったってことだろう?」
「他人事みたいに言うなよ。お前のことだ」
まぁ、それはそうなんだけど。
パンは少しずつみずみずしさを失って、レタスと一緒に萎んでしまいそうに見えた。
薄曇りの空に、月が見え隠れする。朧月夜だ。
「確かに志望しなかったけど、しても落ちてたと思うんだ。高校まではさ、お前と面白おかしく勉強してたけど、僕たちはもう今までと違うんだよ、ちょっと」
バツが悪い。
嘘をついたわけではなかった。
僕の成績は決して悪くはなかったけど突出もしてなかった。そういうことだ。
「今年こそ同じクラスかと思ったのに、つまんねーじゃん。お前の名前、名簿のどこにもなくてさ、代わりに片品さんはいたけど、理央もいない」
「理央は追試多いからね。それを望むのはいくら彼氏だからって酷じゃない?」
「片品さんは? 俺よりお前がいた方が良かっただろうよ」
そういうことじゃないんだ。
聡子は進路希望の話をした時、それは信号待ちの時だったけれど「そう」と一言いった。
その顔には「クラスが変わってもわたしたちには関係ないよね」と書いてあったし、同時に「相談してくれなかったんだね」と少し責められてるようにも感じた。
でも彼女ははっきり声に出して言った。
「四月からは別のクラスだね」と。そういう彼女のメンタルの強さには脱帽する。
いつも、眩しさを感じる。
「理央はお前に任せるよ。きっともうなにも問題は起きないだろうし、変な虫が付かないように見張って······」
クシャッと食べ終えたサンドイッチの袋を握った。たいして大きな音は出なかったけど、洋は驚いた顔をした。
僕はなんでもないようなふりをして、白いビニール袋にそれをしまい、ペットボトルのキャップを開ける。
コーヒーの香りが夜風を濁す。
「そういうのはもうやめよう」
洋は食べかけのお好み焼きを膝に乗せ、口の中身を咀嚼しきれず答えなかった。
僕を、おかしなものを見るような目で見ている。
それはとても悲しいことだったし、自分で言って泣けてきた。
空の上には朧月。
涙で曇ってるのか、それは謎。
のはず。頬をつたってこなければ······。
「おい、なんだよそれ? 全然わかんないんだけど。なんで泣いてんだよ。なんで今までのままじゃダメなんだよ。おい」
一筋の涙なんて、まるで女の子みたいだ。一体なにをしてるんだろう? 変わらなくちゃいけない理由なんて本当にあるのか?
「つまり――僕は僕、お前はお前ってことだ。ここから先はそれぞれ自分の道を歩いて行くんだ。そういうこと。
進路が違うみたいに、彼女も違う。
今までとは違うんだよ、俺たち」
いつも通り、割り箸は真ん中から強引にバキッと折られた。気の毒な割り箸だ。怒りで割られるんじゃ浮かばれない。
「······俺だってこんなんだけど、わかってないわけじゃない。中学で同じ部活に入れなかった時も、高校で俺だけ予備校通いさせられた時も、クラスが全然同じにならなかった時も、ずっと感じてた。
俺たちは少しずつ離れていくんだってこと。
でもさ、この一年はいいんじゃないか? 本当に共通項がなくなるまで、重なってる部分がこの一年でもいいんじゃないか?
俺は確かに理央が好きだけど。それよりお前に同じ教室にいてほしかったんだよ」
ありがとう。
こんな僕にそんなに友情を感じてくれてることに感謝する。
「バカだな。まだ友だちだよ。例え来年、離れるとしてもさ」
だよな、と洋は照れ笑いした。勘違いしたと思ったらしい。
僕は来年の春までにきっとスイングバイして推進力を増す。洋だってそうだ。そうやって僕たちは否応なく違う方向に離れていって、次の挨拶はいつしか「やぁ、久しぶり」になるんだ。
「元気だった?」と聞かなければならないほど、お互いが見えない時間が多くなる。
遠い時間の先に思いを馳せる。
洋が僕を見失う頃、理央も僕を思い出にする。
僕はあの第二ボタンをそれまで大切に持っているだろうか? 悲しい恋の勲章として。
皆、自分の道を行くんだ。
雲が流れて月の光がやさしく僕らを照らす。
今夜は朧月。
明日が雨なら、最後の桜の花びらも全部、散ってしまうかもしれない。
春が終わっていく。
(了)
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