第43話 大破

 赤い反射板が一瞬光ったと思ったその直後、すごい音がして、まだベンチにいた僕は力一杯走った。

 嫌な予感しかない。

 車の姿はない。

 この時間、この住宅街は静かになる。裏通りを走る車はいない。逃げてなければ、だけど。


 はぁっ、はぁっと息が切れる。

 自転車が横倒しになって洋がその下敷きになっていた。

 僕はゆっくり自転車を起こしてから、洋の様子を見た。

「······マジ、やべぇ」

「冗談じゃないぞ、車に轢かれてたら今頃大変なことになってたんだから」

「やべぇ、腰抜けたわ」

 ダメになってしまった洋の外傷を見る。

 血が出てるところはほとんどない。擦りむいた手と顔くらい。心配なのは打ち身や捻挫、骨折だ。

「歩ける?」

 いたたた、と言ってなんとか洋は立ち上がった。折れてるかは外からわからないけれど、満身創痍といった感じだ。デニムパンツの膝が擦れて破けている。

「あー、これはダメかも。ちょっと悪いんだけどうちの親、呼んでくんない?」

 マジかよ、とこっちも思う。洋の両親は鬼門だ。洋の遊び相手である僕を二人はあまり快く思っていない。勉強の邪魔をするやつだとしか思われてない。そういうのは隠してもわかることだ。


「夜分にすみません、藤沢です。ご無沙汰してます。あの、突然なんですが洋くんが自転車で転倒してしまって」

 うちの洋ですか、とお母さんがすごい声を上げる。

 大切にされてんだな、相変わらず、と思う。方向性は違うのかもしれないけど。

「申し訳ないんですが、車で迎えにきていただけますか? 僕、そばについて待ってるんで」

 すぐに行きます、と慌てた調子でお母さんは電話を切った。急いで来る途中にお母さんも事故に遭わないといいんだけど。


 さっきは驚いたけど、小さい頃にはよくあったことだ。

 僕の自転車が砂利道で横滑りして、並んで走っていた洋の自転車も横転した。

 夏だった。

 半袖半ズボンだった僕らは擦り傷で血だらけだった。ちょっとしたホラーで、痛くても指さして笑い合った。傷がじんじんした。でも腹が痛くなるまで笑い合った。


 洋は無事にピックアップされて、壊れかけたかわいそうな自転車は、とりあえず僕が家で預かることになった。

 廃車だろうか? 気の毒だ。

 家に帰ると足と腕の一部が真っ青になったというので、洋は笑っていたけど翌日、両親の賢明な判断で整形外科に行かされた。

 お母さんの運転する白のセダンで。

 朝、駅前で聡子といつも通り待ち合わせをして、いつかは毎日の習慣だった赤いポストまで歩く。

 内心、僕はドキドキだった。

 あんなことがあった後に、二人は普通の顔をして会えるんだろうか?

 もしそうだとしたら、女の子は本当に強い。


 坂道の手前、真っ赤なポストが見えてくる。

 理央が、自転車を避けてポストより少し後ろ側に立つ。

 まるでいつかのデジャブのようだ。

 戻らない夢の世界がそこには見えた。

「奏くん?」

 気が付くと僕は理央を見つめてその場に立ち尽くしていた。理央をじっくり見るのはあの日以来だ。気まずさから視線さえ避けて通っていた。

 は、と思ったのと同時に、後ろからお尻を蹴り飛ばされる。

 あの黒いローファーはおとなしい女の子の象徴じゃなかったのか?

「行っておいで。わたし、先に行く。なんてったって力いっぱい殴っちゃって顔合わせづらいし、ね?」

 おい、という声を無視して聡子は友だちのところへ走っていった。おはよう、と朗らかに挨拶して。


 僕も根性を決める。

 足が重くなった気がする。

 ドクドクと体中の血液が沸点に達しそうになる。

「おはよう」

 理央は今日もちよちゃんの顔をしてくるっと振り向いた。うなじが目に入る。あの日、ほんのちょっと手を伸ばせば届いた白くしなやかなうなじ。

 目の毒だ。

 僕は目を逸らして本題に入った。

「奏くん、洋くんの容態はどうなの?」


「あのさ」

 洋の愛用していた青いiPhoneはポケットから飛び出して、めでたく自転車と共に大破した。それに気付いた時、洋は諦めの笑いをした。とても理央に連絡できる状態じゃなかった。

 仕方なく僕が代わりに理央に電話した。理央は電話の向こうで驚いて息を飲んだ。

 ······どれくらい経っただろう。理央の気持ちが夜の静寂の中、流れ込んでくる。


「実は洋が自転車で転んで怪我をしたんだよ。僕が一緒だったから洋の家に電話して、迎えに来てもらったんだ。救急車を呼ぶほどではなかったし、明日になったら病院に行くと言っていたよ。だから、明日の朝は洋はいないんだ。理央?」

「洋くん、大丈夫? 本当に大丈夫なの? 交通事故なんでしょう?」

はぁっと理央に聞こえないように気をつけてため息をこぼす。理央は単純に洋を心配している。それは正しい線上だ。


「いい? 洋は自転車に乗っていて、横に滑って転んだんだ。僕がすぐに駆け付けて様子を見たけど、自分で立てるようだったからそれほど心配しなくても。とりあえず、命に別状はないよ。安心して。明日、精密検査を一応、受けてくるって」

洋の両親は過保護なんだ、という言葉は胸にしまった。まだ会ったこともないのに不必要な情報を伝えてもいけない。

「うん、わかった。とにかく車に轢かれたりはしてないってことだよね。それで病院で一応の検査をしてみないと、怪我の様子はわからないってこと」

「うん、伝わってよかった」

ふわっとした空気が、スマホの通信に乗ってやさしく伝わってくる。言葉に温度を感じる。


「奏くん、教えてくれてありがとう。ごめんね、わたし、混乱しちゃって」

「誰だってすると思うよ。僕の方こそ、こんな時間にごめん。――そう、洋のiPhoneなんだけど、転んだ時に壊れたみたいで動かないんだ。連絡も取れなくて不安かもしれないけど、待っててあげて」

うん、と理央は返事をした。

どんな表情だったのか、なんとなくわかる。

安堵をしたその顔は、ほっぺたがいつもよりやわらかくなるような、そんな微笑みを作ったに違いない。


 

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