Scene6-2

―雅孝―

『ごめん、しばらく実家に帰ってるから会えない。』

ある日突然きたメッセージに、何と返事を返したら良いかわからず、慌てて電話を掛けたことを覚えている。

いつまでも鳴り止まない呼び出し音に焦りが募った。メッセージを送っても、返事はいつまでも返ってこなかった。

それから一週間堪え、一回だけ、と思いながら様子を見にマンションへ向かった。

インターホンを押しても返答は無かった。あの時は合鍵も持っていなかったから、それ以上どうしようも出来ず、帰ろうとした。

「…雅孝?」

驚いて振り向くと、着替えが入っていたのか大きめのリュックを肩に掛けた朔也が、帰ってきたところだった。

「朔也…」

右手の薬指にはまったままの指輪を見て、ほっとした。俺よりずっと小柄な体を、思わずきつく抱き締めた。

「ちょ、どしたの。」

「…フラれたのかと思った。」

「ええ、何で?」

「会えないなんて言うから。」

「あー…ごめん、ちょっと体調が悪くてさ…。」

体を離し、朔也の顔を見た。目の下には隈が出来ていて、元から色白ではあったけれど、その時は本当に青白い顔をしていた。


部屋に一緒に行き、荷物を片付けるのを手伝った。実家に帰っていただけの割には、まるで旅行にでも行っていたかのように生活用品がたくさん出てきた。

いつから実家にいたのかと問うと、雅孝にメールした日からだよ、と返事があって首を傾げた。

「仕事はどうしてたんだよ。」

その頃、朔也はバーテンダーの仕事を辞め、小さなアパレルショップで働いていた。

「…辞めたんだ、仕事。体がちょっと、しんどくて。」

朔也は青白い顔で、無理して微笑んだ。

「俺さ、実はその…結構体弱いんだよねー…。」


―今思えば、何度も言うタイミングはあったのだ。隠していたわけじゃないなら、本当に話す気があったのなら、いつだって言えたはずなのに。

とうとう、自分からきちんと、話してはくれなかった。


ひどく、雨の降る日だった。

『ぐあいわるい』

仕事終わり、メールに気づいて慌てて朔也のマンションへ駆け付けた。

部屋に入り、名前を呼んだ。返事がないので寝室を覗くと、朔也は真っ赤な顔をしてベッドに横たわっていた。

「どうした、風邪引いたのか。」

汗ばんだ額に手を当てると、燃えるように熱かった。

「…ごめんね、仕事…大丈夫だった?」

体を起こそうとした朔也を押しとどめた。

「無理に起きるな、寝てろ。」

「うん…」

次の瞬間だった。

「―っ!」

「どうした…おい、朔也?!」

胸の辺りを強く抑え、突然苦しみ出した朔也を前に、頭が真っ白になった。何が起きたのか分からず、慌てて救急車を呼んだ。

付き添いで一緒に乗り込んだ。家族に連絡を、と言われたけれど、実家の住所も連絡先も俺は知らなかった。

「―っ朔也、朔也!!」

病院に着き、運ばれていくストレッチャーを追いかけた。

その時突然、キンっ…と、冷たい金属音がして、立ち止まった。

青白い病院の蛍光灯に反射する、光の輪。

拾い上げた。白銀の、細いリング。

『―大事にするよ。』

そう言って微笑んだ、記憶の中の姿が薄れていく。

痩せ細った指先から落ちた指輪は、まるで二人の関係の終わりを暗示しているかのようだった。


緊急の処置が済み、治療に当たっていた若い医師が俺の前に現れた。

朔也とは幼馴染だというその人―世良さんは、黒縁の眼鏡越しに俺と目が合うなり、鋭い眼光で睨みつけてきた。

「お前、桃瀬とどういう関係なんだ。」

一瞬答えを躊躇った後、恋人です、と言った。

「だったら知ってるはずだよな。どうして―」

「何をですか?」

焦って聞いた。眼鏡の奥で、世良さんは瞠目した。

「…まさか知らないのか、桃瀬の病気の事。」

「病気…?」

一体何の事だか分らず、困惑した。

一瞬、世良さんの右手が動いた。不自然な姿勢で止まり、何か堪えるように拳が握りしめられた。あの時対峙していた場所が病院でなければ、殴られていたのかもしれない。

人気のないロビーで突っ立ったまま、世良さんの口から初めて、朔也の病気の事を聞いた。


それから朔也は、一週間ほど入院した。

退院の日、朔也は気まずそうな表情で俺を見た。

「…ごめんね、黙ってて。」

謝られたけれど、どう返していいか分からなかった。

「隠していたわけじゃ無いんだ。」

―だったら、どうして。

どうして黙っていたんだ。そんな大事な事も話せないほど、俺たちの関係は希薄なものだったのか。

口を開いたら朔也をひどく責め立ててしまいそうな気がして、何も言えなかった。


それから、朔也に体の事を根掘り葉掘り聞いた。

もしもの事があったらすぐ駆け付けられるように、合鍵も預かった。

だけど、それ以来朔也に触れられなくなってしまった。

怖くて―また、あんな事になったらと思うと、怖くて。

ただ唇を重ねることにすら、慎重になっていった。

そんな俺の変化に、いつしか朔也も気づいていたんだろう。病気の事を言えずにいたのは、そうなる事を分かっていたからなのかもしれない。

別れて欲しいと、何度か言われた。本気にしなかった。その度に、俺が好きで一緒にいるだけだから気にするな、と躱した。

―だけど。

至近距離で、目を合わせなくなって。

触れても、拒むようになって。

電話しても、出ない事が多くなって。

そうやって少しずつすれ違っていった。

噛み合わない歯車はやがて軋みだし、ある時突然、壊れて落ちた。


いつもの様に朔也の部屋に行ったある日、不意に朔也の方からキスをしてきた。

勢いでベッドに倒され、戸惑っているうちに服を脱がそうとしてきたから、慌てて止めた。

「何する気だよ。」

セックス、と短い答えが降ってきた。驚き、押しのけようとしたら抵抗されたけれど、俺と朔也の体格差で朔也がかなうはずもなかった。

体を起こしてベッドの上で向かい合って座り、華奢な両肩を掴んだ。

「何考えてんだ、また発作起こしたりしたら…!」

「…ねえ…、」

零れ落ちそうな大きな瞳には、薄い膜が張っていた。

「こんな扱い方、いつまで続けるつもりなの?俺が死ぬまで?」

死、という単語にひどく動揺した。

「ばかな事言うな」

声が震えた。朔也は俺の手を振りほどくと俯き、もう別れよう、と小さな声で言った。

「もう無理だよ。こんなのもう、限界。」

「どうして…俺のこと、好きじゃないのか。」

すきだよ、と言った声は涙で濡れていた。

「好きだから、もう一緒にいられない。こんな風に無理してたって、お互い傷つくだけだよ。」

「朔也…俺は」

「お願い、分かって。」

朔也は、右手の薬指に無理にはめ続けていた指輪を抜くと、俺の手に握らせた。

「恋愛するには、俺の体はもうしんどいんだ…。」

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