Scene4-4

―慶一―

―潮風の香りは、遠い記憶を想起させる。

「…探しましたよ。」

固い革靴がコンクリートを踏み締める音が、背後で響く。

「仕事は終わったの。」

砂浜に降りる階段の隅に腰かけ、海を見つめたまま問いかける。ついさっきまでオレンジ色に焼けていた空も、気づけば夜の気配に包まれていた。

「ごめんなさい、思ったより遅くなって。」

「いいよ。忙しいんだろ。」

「すみません…。」

立てた膝に頬杖をつき、レインボーブリッジの光に反射する水面を見ていたら、「海、好きなんですか。」と問いかけられた。

「好きだよ。実家、田舎の海辺だからさ。親もサーフィンとか…海が好きで、小さい頃はよく連れられて来てた。」

「へえ…なんか、意外ですね。」

「そう?」

「てっきり、都会育ちかと。」

「都会ねえ…。」

ライトアップされた巨大な橋が架かる向こう側に乱立する、ビル群に視線を移す。

柳さんは隣に来ると、俺と同じように階段に腰を下ろした。

「慶一さんは、どうして教師に?」

「別に、大層な理由なんかないよ。…ただ。」

「ただ?」

「勉強教えるの、楽しいなと思った事があっただけで。」


―大学生の頃。卒業後の進路に迷っていた時に、友人に誘われて軽い気持ちで家庭教師のバイトを始めた。

初めて担当した生徒が、透人ゆきとだった。

『先生、見て!また順位上がりました!』

嬉しそうに成績表を見せてくれた、あどけない笑顔を今でも思い出せる。

『すごいな、名木なぎくんは。』

『先生のお陰です。』

そう言われて照れくさくて、誤魔化すように透人の頭を撫でた。

『違うよ、名木くんが頑張った成果だろ。』

そうしたら、驚いた様に透人の頬が赤く染まった。

『…先生、あの。』

『うん?』

『名前で、呼んでくれませんか。』

『あー…えっと。』

『透人、です。』

『…透人?』

俺に名前を呼ばれた透人は嬉しそうに、はにかんでいた。


波が打ち寄せ、潮風が冷たくなってくる。

「…ひどいと思わない?」

「はい?」

「俺さ…これでも結構、本気で好きだったんだよ。」

一緒にいる時間が長くなるほど、そばにいるのが当たり前で空気みたいな存在になっていった。

初めて思いを打ち明けられた日のような甘い気持ちは無くなっても、ただ二人でいられれば幸せだった。

「けど…そう思ってたのは、俺だけだったんだよな…。」

まさか浮気されるなんて、微塵も考えてなかった―。

不意に、肩に手が置かれた。驚いて柳さんの顔を見る。

「何だよ。」

「いや…泣いているのかと。」

「何で泣くんだよ。」

「いえ…」

強い風が吹いた。日が沈んで、だいぶ気温が下がってきている。思わず、ギプスのせいで上着に袖を通していない右腕を抱いた。

隣で、柳さんが身じろぐ気配がする。

「…え。何してんの、それ。」

自分の着ているジャケットを広げてこちらを向く、柳さんに問いかけた。

「風避けです。」

「はあ?」

思わず吹き出した。本人は至って大真面目なのかも知れないけど、その格好はまるで飛び立つ前のモモンガみたいだった。

「おかしいですか?」

柳さんが気まずそうに耳を赤くする。その表情がまた意外で、頬が緩んでしまう。

「はは、何それ。あんた、結構可愛い真似するんだな。」

「あ。…初めて、笑ってくれましたね。」

「…そっちこそ。」

俺を見て、無意識にか微笑んでいる柳さんに向かって言う。

「笑うと結構、可愛いじゃん。」

柳さんは驚いた様に目を丸くした後、ふ、と優しく笑ってくれた。

「…そろそろ、帰りませんか。風邪引きますよ。」

「…ああ。」

座り込んでいた階段から立ち上がる。少しよろけたら、すっと手を差し出して支えてくれた。

タバコの、匂いがした。


***

マンションの駐車場で、車が停まる。

礼を言って降りたら、慶一さん、と呼び止められて振り返った。運転席から降りてきた柳さんと目が合う。

「明日も、迎えにきて良いですか。」

「良いよ。」

自分でも驚くくらい素直に返事をしてしまった。分かりました、と柳さんが頷く。

「では、また明日。」

「なあ。」

「…?」

車に乗りかけた柳さんが、振り返る。

「うち、上がっていく?」

「…はい?」

怪訝な表情をした柳さんに、言った。

「"食べ損ねた据え膳"、…食わなくていいの。」

カツン、と、靴底の音が響く。

俺の真正面に来た、柳さんを見上げる。一体、どれくらい身長差があるんだろう。上目遣いになった俺の両頬を、筋張った両手が包み込む。

…この人は、キスする時に顔を左に傾ける癖があるんだよな。

重なった唇からこぼれる吐息は、少し苦い味がした。

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