第四話 素直になれなくて

Scene4-1

―慶一―

二日酔いするほど飲んだつもりはなかったが、起きた時の頭重感がひどいのは、やはり昨日のアルコールが残っているせいだろうか。

冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。右腕全体で抱え込むようにしてボトルを押さえ、慣れない左手で開栓しコップに注ぐ。たったこれだけで随分と余計なエネルギーが要る。

なみなみと注いだ水を半分くらい飲み干し、さて洗濯物をどうするかと考える。綺麗に干せる自信がない。せっかくの晴天だが、今日は時間も無いし仕方なく乾燥機にかけることにした。

適当に朝食を済ませ、洗い物は帰ってからやる事にして洗面所へ向かう。昨日は髪を洗うのが本当に大変だった。幸いひどい寝ぐせはついていなかったので、洗顔と髭剃りだけ急いで行い、着替えて部屋を出た。

エレベーターから降り、マンションの外へ出る。車の運転は大丈夫だろうか…と思いながら駐車場へ足を運ぶと、どこかで見た記憶のある黒塗りの外車が目に入った。

「おはようございます。」

髪をきっちりセットし、質の良さそうなブラックスーツを隙無く着こなした柳さんが、運転席から降りてくる。…どうやら今日は一人らしい。

「あの、何か?」

「車運転出来ないでしょう。学校まで送ります。」

「いえ、大丈夫ですから。」

「危ないですって。」

「じゃあ電車で行きますから、どうぞお構いなく。」

「最寄り駅から遠いのでは?」

言われ、駅まで歩こうと踏み出しかけていた足が止まる。確かに、うちの学校は最寄り駅が最寄じゃないくらいには、辺鄙な場所にある。

聞こえよがしに、大きくため息をついた。

「…分かりました、じゃあ今日だけ。」

「どうぞ。」

助手席のドアけてくれるので、大人しく乗り込んだ。仄かに、タバコの匂いがする。

「先に言っておきますけど。」

運転席に乗ってきた柳さんの方を向く。

「お詫びとか気にしているなら、もう本当に結構ですから。」

「そうですか、分かりました。」

こちらを見もせずに淡々と答え、柳さんはシートベルトを締めると車を走りださせた。

「…今日は、いつもの人はいないんですね。」

黙っているのも息苦しくて話しかけた。

「ああ…五十嵐ですか?先に出勤していると思いますが。」

「あんたのお抱え運転手じゃないのか。」

「ただの部下です。プライベートな事にまで巻き込むのは本意ではないので。」

「プライベートなのか、これ。」

「先ほど、あなたは気にするなと言いましたけれど。」

混みあっている道の途中で、赤信号につかまり車が止まる。

「怪我させたのは、完全に俺の不注意なので。」

柳さんの視線が、ギプスに固められた俺の右腕に向く。

「…あの、もう忘れてもらえませんかね、それ。」

窓の外を意味も無く見る。隠しようもないが、たぶん耳が赤くなっている気がする。

「忘れろと言われても。」

青信号に変わったのか、再び車が走り出す。

「難しいですね。」

「何でだ…ですか。」

「据え膳ちらつかされて、食べ損ねてますから。」

ぎょっとして思わず顔を見ると、横目でちらりと見られた。

「どうですか、また今夜にでも。」

「はあ?!」

「冗談です。」

「…。」

思わず額を抑える。…何なんだこの男。真顔で声のトーンも変えず、次から次へと。

「ああ、それと。」

「…?」

今度は何だ、と思わず身構える。

「無理して敬語使わないでください。世良さんと同級生なら、俺の方が年下なので。」

「…あんた、いくつ?」

「25です。」

「にじゅうご?!」

思わず大きな声が出てしまい、慌てて口を押えた。

「は、嘘だろ。老けすぎじゃない?」

「…よく言われますが、そこまではっきり言われたのは初めてです。」

柳さんの顔が引きつる。

そうこうしているうちに、学校の正門が見えてきた。早い生徒は、もうちらほらと登校してきている。

「ちょっと離れた所に止めてほしいんだけど。」

「分かりました。裏に回りましょうか?」

「…いや。その辺りで、止まれそうな所に。」

裏の駐車場まで行ったら他の先生達に会うかも知れない。そうなったら、生徒に見られる以上に気まずい思いをする。

正門を通り過ぎ、駐車禁止の標識を避けた場所で止まってもらう。

「お帰りは何時頃になりますか。」

「いや、いいって本当に。あんただって仕事あるんだろ?」

「俺の心配は良いですから。慶一さんさえ嫌じゃなければ、帰りも迎えに来させて頂けませんか。」

「…。」

何という、ずるい言い回しをするのか。そんな言われ方をされたら、断れないじゃないか。

「何時になるか、分からないんだけど。」

「電話していただければ、すぐに来ます。」

「どうしてあんたが俺にそこまで?」

純粋に疑問に思って聞くと、少し考える素振りを見せた後、淡々とした調子で言った。

「後で恨まれたり、訴えられたりしたら困るので。」

「…そうか。大変だな、大企業のご子息様は。」

「冗談ですって。真に受けないでください。」

「分かりづらいんだよ、あんた。」

ふう、と小さく息をつくと、柳さんは懐から小さなシステム手帳を取り出した。

「今朝も、迎えに行ったら怒るだろうとは思ったのですが、どうしても気になって仕方がなかったんです。」

手に取った手帳に番号を書き付け、破ると俺に差し出してきた。

「俺の番号です。必ず迎えにきますから、電話ください。」

「…。」

黙って受け取り、車を降りた。少しの間を置く事なく、エンジンがかかる音がして走り去って行く。

余裕あるふりして、やっぱり自分だって急いでいたんじゃないか。本当は忙しいくせに、何だってそこまで。

手に持ったメモを見る。番号をスマホに登録しておくべきか迷う。走り書きにしては綺麗に書かれた番号を見ているうちに、そういえば名刺をもらっていた事を思い出して財布を取り出した。思った通り、ホテルに連れて行かれた時に渡された名刺が入っていたので取り出す。

会社名と肩書き、名前、そして会社の電話番号と携帯番号が書かれていたが。

「あれ…。」

名刺の番号と、メモの番号が違う。

―もしかして、わざわざプライベート用の番号を教えてくれたんだろうか。

迷った末にスマホを取り出し、新規作成ボタンを押してメモに書かれた番号を登録した。名刺は財布に戻し、懐にしまう。…たぶん、こっちの連絡先に、用はないだろうから。

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