第7話

 魔法のような呪文が響くと、懐かしい高揚感が胸にきざした。学校に行くふりをして、こっそり戻ってきた淳美が、じゃれついてくる浩哉ひろやへ人差し指を立てながら、菊次のいる和室へ逃げ込んだ日にも、菊次は淳美に色彩を告げたのだ。――淳美ちゃん。えない空色を引っげてどうしたんだい。こんなに天気がいい日なのに、学校で遊ぶのが嫌になるほど、今日の外は眩しいかい。

「今日の私は、どんな色?」

「夕焼け色さ。淳美ちゃんが、初めて作ってくれたスパゲティにそっくりな」

「どうしてそう思うの?」

「さあ、どうしてだろうねえ」

 笑い声を立てた菊次は、何気ない口調でつけ足した。

「途方もなく悲しい別れを迎えた日に、ふらりと見上げた夕空を、これまでの人生で見た中で一番美しいと感じる時が、誰にだってあるものさ」

「私、そんなふうに感じたことなんてまだないよ」

「それじゃあ、これからさ。いずれにせよ淳美ちゃんの悩みは、一人の帰り道の色だね」

 年の功という感性の鋭さは侮れない。舌を巻いた淳美は、少し迷ってから、言ってみた。

「例えば、小学生の私が絵を描いたとするでしょ。だけど学校には、私の描いた絵を快く思わない人がいる」

「それは、悲しい気持ちになるねえ」

 目元に大げさな皺を寄せて、菊次は剽軽ひょうきんに言った。たったそれだけの小さな魔法で、わだかまりが綿菓子みたいにふわっと軽く甘くなる。淳美も、力強く笑みを返した。

「そうだね。悲しいね」

「淳美ちゃんは、その出来事を通して、絵を描くことを嫌になるかい」

「なるかもしれない。でも私は気が強いほうだから、こういうふうにも、きっと思う。誰に何を言われても、私の絵は私の絵。周りの評価なんて関係ない」

「はは、尖った先生だねえ」

「ふふ、だけど、そうだね。周りの評価なんて関係ないなんて、本気で思っていても……もし誰か一人でも、私の絵を認めてくれたら。本当は、飛び上がるほど嬉しい。少なくとも、私はそういう子」

「なるほどね。淳美ちゃんと同じ夕焼け色をしたその子は、きっと大丈夫さ。淳美ちゃんが先生なんだから、怖いものなしだ」

 悲しみの色が見える菊次には、全てお見通しのようだ。面映ゆさが強くなった淳美は、ベッドの端に腰かけて、細く開いたままのふすまへ顔を向けた。互いの顔を見ないほうが、言いやすいこともある。

「小三くらいまでは、確かに学校は私にとって、あんまり楽しくない場所だったな。みんなで同じことをしなきゃいけないのに、勉強でも体育でも、みんなに得手不得手があるわけで。そういう得手不得手はテストの点とか、先生にどれだけ褒められるかで可視化されて。毎日試されてばかりいると、そういう得手不得手を優劣として捉えがちだし。でも、浩哉ひろやが入学してからかな。それを退屈だって思う暇がなくなったのは」

 幼い淳美にくっついて賑やかに歩いていた当時の浩哉を思い出すと、苦笑が漏れた。この部屋に淳美が逃げ込んでいた頃、菊次が露原つゆはら家のあちこちに隠した色とりどりの飴玉という宝探しをしていた浩哉は、スイカ味の飴玉を見つけて微笑む顔がまるで天使そのものだった。数年後には隙あらばプロポーズを叫びまくるヘンテコな男になるなどとは、この時は夢にも思わない。同じ映像を懐古したのか、菊次が喉をくっと反らして笑った。

「さしずめ浩哉は、淳美ちゃんの救世主だね」

「そうかもしれないね。この場所はそう捨てたものじゃないって気になれたし、私にとってあんまり楽しくない場所だったからこそ、楽しい場所にしたくなったのかもしれない」

 浩哉が、そうしたみたいに。その台詞せりふだけは飲み込んでから、改めて和室を眺めると、淳美が学校をサボって逃げ込んだこの部屋は、あまりに昔のままだった。窓の障子は二枚分だけ、色が他よりも白い。小学生の浩哉がふざけて破いた一枚と、それを見て面白がった菊次までふざけて破いた一枚だ。佳奈子かなこがぷりぷり怒りながら淳美の母と話していたのを、淳美もしっかり覚えている。二人は叱られてもどこ吹く風で、楽しく障子を張り替えたという。

 この祖父と孫のエピソードは、淳美の小学生時代の記憶の中でも、燦然さんぜんと光り輝いていた。本音を言えば、その輪にまざって障子を破きたかったくらいだ。二人が破いた障子だけ、他の障子と重ねた時間の長さが違うことが、二人の絆の強さをいつまでも表し続けている。日差しにかざしたサイダーのような水色の影を注いだ部屋には、そんな歴史と温もりが残っている。

 つい物思いにふけっていると、笑みを含んだ不意打ちの声が飛んできた。

「ところで淳美ちゃんは、いつになったらうちに嫁に来るのかね」

「おじちゃんまで、浩哉みたいなことを言って……」

 団扇うちわを菊次から奪い返し、風を送って抗議した。いかにも楽しげに白髪を遊ばせた菊次を眺めていると、意地を張る気が失せてしまった。口ごもった淳美は、団扇うちわもてあそびながら囁いた。

「顔を合わせるたびに結婚してって言われて、はいはいってあしらうのは、浩哉が小学生の頃からずっとだもの。菊次おじちゃんだって知ってるでしょ」

「知っているさ」

「私たちはそんな幼馴染で、ずーっとそんな関係だったから」

「今さら変えられない、か。じれったいねえ」

 菊次は、豪快に笑った。こちらがもじもじしているのが馬鹿らしくなるほど、気持ちのいい笑い方だ。淳美も肩の力がふっと抜けて「おじちゃんが思ってるほど、単純にはいかないんだよ」と自分でも意外なくらいに本心をするする言葉にできた。

「三つ年下って、大ごとなんだから。私が中学三年生の時は、浩哉は小学六年生。中三の受験生がランドセル背負った男の子とつき合ってたら、周りはびっくりしちゃうでしょ」

「小さな世界だねえ。佳奈子かなこさんが居間に飾ってる、スノードームとかいう海外旅行の土産品みたいに小さな世界は、淳美ちゃんには似合わんよ」

 その通りかもしれない。淳美は二十五歳になって、浩哉が二十二歳になって、今の二人になってようやく、そんな言葉のボールを両手で受け止められるようになれたのだ。ただ、そこまで自分のことを掌握できても、十年以上つちかわれた慣習は、そう簡単に変えられない。

「しかしまあ、あと一歩がまだ足りんとしても。毎年一歩ずつ確実に、淳美ちゃんの世界が浩哉の世界に近づいてきたってことさね」

「菊次おじちゃん。この話、浩哉に言っちゃ駄目だからね」

 しっかり念を押してから、淳美はもう何の所為だか判然としない暑さを誤魔化すために、団扇うちわでせっせとあおぎ続けた。可笑おかしそうに声を立てる菊次が、介護用ベッドに背を預けて、やがて健やかな寝息が聞こえるまで、それは続いたのだった。

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