第8話

 淳美あつみが食器を重ねて台所へ向かうと、佳奈子かなこは居間にいた。淳美が浩哉ひろやに昼食をご馳走した日の翌日に、菊次きくじが座っていた一人掛けソファに、佳奈子は深く腰掛けていた。レースのカーテン越しの光を受けた佳奈子は、逆光のせいで身体の半分が曇り空の色をした影に沈んで見える。

「ああ、淳美ちゃん。任せっきりでごめんなさいね」

 佳奈子が、はっとした様子で立ち上がった。体勢が変わったことで、横顔に落ちた影を、白い日差しがぎ払う。けれど闇と光が入れ替わっても、顔色の悪さは消えなかった。胸の奥がざわついたが、淳美はえて普段通りの口調で言った。

「とんでもないです。カボチャの煮つけ、ごちそうさまでした。すごく美味しかったです。あの、体調は大丈夫ですか」

 眩暈めまいを理由に、佳奈子は昼食の場に同席しなかった。菊次もまた、そんな佳奈子の不在について、取り立てて何も言わなかった。

「ええ、大丈夫よ。ありがとう」

「菊次おじちゃん、寝ちゃいました。お喋りにつき合ってもらったから、疲れさせてしまったかもしれません」

「気にしないでいいのよ。若い人と喋るのが、あの人の元気のみなもとなんだから」

 そう言って笑った時だけ、雪洞ぼんぼりに明かりが灯るように、佳奈子の頬に血が巡って人間的な赤みが差した気がした。淳美も明るい笑みを返しただけで、何も追及できなかった。自分は露原つゆはら家の人間ではなく他人なのだという現実が、厚い壁となって行く手を阻んでいる。それを飛び越えてまで佳奈子に問い質す勇気は持てなかった。淳美が話題にしない限り、佳奈子がそれに触れることはないだろうと容易に想像できて、その予想は外れなかった。

「今日のスパゲティ、さっき私もいただいたわ。バジルとトマトって合うのね。淳美ちゃんのお母さんが教えてくださったの?」

「そうなんです。母はよく料理番組を録画していますし、放送をまとめたレシピ本も出ているんですよ。びっくりするような材料を使っているものもあって、読んでみたら結構面白くて……」

 平和な雑談に興じながら、頭の中は二人の確執かくしつで占められていた。淳美の知る露原菊次と、佳奈子だけが知る露原菊次が、まるで別人のように感じられた。そして、逆もまた然りだった。淳美と話している露原佳奈子は、菊次だけが知る露原佳奈子と、本当に同じ人間だろうか。先ほどの菊次が佳奈子に対して、何かしらの感情を植物のように育てていたことは見分けられても、その植物が何色の花をつけるのかは、淳美には菊次のように見分けられない。今だってそうだ。疲弊した佳奈子の苦しみは見えるのに、その苦しみの源泉がどこにあるのか目に見えない。

 今の淳美には、力なく笑う佳奈子へ明るく接する以外に、気遣い方が分からなかった。

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