第6話

 新作としてこしらえたトマトとバジルの冷製スパゲティは、なかなか好評だった。潰れないよう角切りにしたトマトの赤と、ざっくりと千切ったバジルの緑と、氷水にさらして引き締まったスパゲティの卵色のコントラストが夏らしく、色彩がビビッドな一品だ。シンプルに塩だけの味つけも、菊次きくじのお気に召したようだ。

美味うまいね。今日は特に暑いから、有難いよ」

「よかった。冷たいスパゲティ、実は初挑戦だったんだ」

 畳で膝を崩した淳美あつみは、ほっと胸を撫でおろした。確かに今日は、菊次の言う通り特に暑い。じりじりと大地を焼く日差しの余波は、和室を外からあぶっている。襟ぐりの開いた白のトップスにカーキのワイドパンツという風通しのいい格好をした淳美は立ち上がると、ベッドの隅に置いてあった朝顔柄の団扇うちわを手に取って、水色のパジャマ姿の菊次へ風を送った。

「菊次おじちゃん、窓を閉めてエアコンに変えようか?」

「平気さ。いい風も吹いてるからなぁ」

「うん。夏って感じがする」

 サイドテーブルに置かれた水のグラスはすっかり汗をかいていたが、鼻腔に触れる空気には藺草いぐさと蚊取り線香だけでなく、夏空の下を駆け抜ける乾いた風の匂いがした。いい風だ、と淳美も思う。郷愁が団扇うちわの風で運ばれて、ここにはないはずの風鈴の音まで聞こえる気がする。あと少し、もう少しで、淳美はその音色に耳を澄ませたあの頃へ、記憶の枝葉を伸ばせるだろう。けれど裏葉色うらはいろに染まった影が海のように揺蕩たゆたう和室で、気持ちよさそうに窓の向こうを眺める菊次の白髪が風に揺れる様子を眺めていたら、何だか満たされた心地になってしまった。

「菊次おじちゃんと二人だけって、珍しいね」

 サイドテーブルには菊次のスパゲティの皿があり、ベッドの隣に用意したちゃぶ台には、淳美の分の皿がある。他には佳奈子かなこが作ってくれたカボチャの煮つけの小鉢があるが、こちらも二人分だけだ。浩哉ひろやは就職活動で出かけているので、今日の露原家は人の気配が薄かった。蝉の声は学校のプールに備えつけのシャワーのように威勢がよく、夏をめいっぱい謳歌おうかしている。

 さっきまで台所で一緒にいた佳奈子も、ここにはいない。

浩哉ひろやがおらんと、この家は違う家みたいに静かになる。あの子は昔っから落ち着きがなくて、騒がしい子だからなぁ」

 菊次は、しみじみと笑った。頬の左側が、微かだがぎこちない。病の後遺症の片麻痺かたまひに普段はまるで気づかないのに、今日はやけに気になった。他にも気になることがあるからだと、淳美はもう気づいている。佳奈子の話題には、これ以上触れないでおこうと密かに決めた。おそらくは佳奈子と菊次の間で何かがあったのだとしても、理由を訊き出すのはこの部屋を出た後で、佳奈子にカボチャの礼を言う時でいい――そう折り合いをつけたところで、淳美は今の考えがひどく出過ぎたものに思えて、はっとした。

 佳奈子と菊次が共有しているそれは、家族でも親戚でもない、家が隣というだけの他人が、踏み込んでいい領域だろうか。実の祖父と孫娘のように昼食をともにして、同じ時間を過ごしても、仮初かりそめ疑似ぎじ家族に過ぎないのだ。弁えておくべき一線を、忘れてはならない。

「淳美ちゃん。最近、教師の仕事はどうだい」

「え?」

 いつしか手を止めていた淳美から、菊次は朝顔の団扇うちわを取り上げていた。朝焼けの空を思わせるピンクがかった紫と、夜明けの空色の深い青が、子守歌のようなリズムでぱたり、ぱたりと風を送り、淳美の前髪をそよがせた。予後よごの風を、また感じた。顔を思い出せない祖父に繋がる、唯一の記憶の予後の風だ。

「昔はこうして、淳美ちゃんと二人で遊ぶことも多かったねえ。学校をしょっちゅう休んでいた淳美ちゃんが、教師になるって聞いた時には、わしは本当に驚いたよ」

「菊次おじちゃんたら、私はそこまで休んでないよ」

 暑さの所為だけでなく頬を薄赤く染めて、淳美は弁解した。確かに小学三年生の頃、淳美は体調を崩したわけでもないのに、何度か学校を休んでいた。その時のことを当事者の淳美よりも、菊次が覚えているのは面映ゆいものがある。

「私、どうして休んだんだっけ」

「喧嘩だよ。五丁目のなっちゃんとね」

「よく覚えてるね。おじちゃんの記憶力、すごいよ」

「なんでも覚えてるさ。淳美ちゃんが喧嘩に強かったことも。なっちゃんも意地を張っていたことも。ちゃんと仲直りできたことも」

「覚えてるよ。仲直りの日のこと。私が飴をあげたんだったね。菊次おじちゃんからもらった飴を、帰り道でこっそりね。お菓子を持っていっちゃだめなのに、ちょっとだけ悪いことを一緒にしたら、共犯みたいで楽しくなって……」

 話しているうちに言葉通り、なんだか楽しくなってきた。西日が強く照る帰り道で、街路樹と雑草の微かに湿った青い匂いが、むっと立ち上った夏の日に、友達とランドセルを揺らして走った日の記憶が、香りを伴って蘇る。菊次は、陽だまりで眠る猫のように目を細めた。

「子どもの喧嘩はいいもんさね、次の日からけろっと笑って、また明日って言い合えるような、柔軟な修復の余地がある」

「大人だと、そうはいかない?」

「気になるかね」

 試すように、菊次が笑った。今度は片麻痺の名残は気にならず、さっきまで張りつめていた見えない糸が、夏の暖気に溶かされて緩んだのを実感する。佳奈子かなこの顔が脳裏を掠めたが、それでも淳美は「ううん」とかぶりを振った。菊次がそれを許してくれても、深入りする資格を淳美は己に見いだせない。菊次は不思議そうに片眉を上げて、しげしげと淳美を眺めた。

「今日の淳美ちゃんは、学校を休んでわしの所に来た淳美ちゃんと同じだねえ」

「そう?」

「そうさ。顔に悩みが浮き出ている」

「どんなふうに?」

「色さ」

「色?」

「儂には、色がわかるんだよ。今の淳美ちゃんの、悩みの色が」

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