第5話

「あっちゃん先生、ばいばーい」

 校門へ向かってグラウンドを歩いていた女の子たちが三人、裏門を出ようとしていた淳美あつみを見つけて、元気に声をかけてくれた。早くも日焼けした彼女たちの手には、筒状に束ねた画用紙が握られている。無邪気な笑みと画用紙の白は夕暮れの橙に染まっていて、磨りガラス越しに見る日差しのような七色の輝きも帯びていた。

「また明日ね」

 日が落ちる前の煌めきへ手を振った淳美は、彼女たちの少し後ろを歩くもう一人の少女に気がついた。しめ縄のようにきつく編まれた三つ編みが二本、上着のフードで重く揺れている。グラウンドの砂を踏む足取りもまた重かった。思わず淳美は、声をかけた。

美里みさとちゃん、また明日」

 梶本美里かじもとみさとの肩が、ぴくりと動いた。振り返って淳美を見つめる瞳は、警戒心の強い猫のようで、本物の猫がそうであるように、きびすを返した美里は痩せっぽちの身体からは俄かには信じられないしなやかさで、校門に向かって駆け出した。さっき淳美に挨拶をした三人組を、あっという間に追い抜いていく。三人の少女たちは同じ小学三年生のクラスメイトへ意味ありげな視線を寄越し、ひそひそと喋り始めてから、淳美の元へ引き返してきた。

「あっちゃん先生からも注意してよ。私たち、美里みさとちゃんの近くで絵をかくの、とっても嫌だったんだから」

「美里ちゃんの近くだと、どうして絵を描くのが嫌なの?」

 腰を屈めた淳美は、穏やかに問いかけた。三人の目は真剣で、愛らしい頬を憤然ふんぜんと赤く染めている。これは只事ではないと直感したが、できるだけ透明に、理科の実験で使う濾紙ろしのように、全てを受け止めてから真実を濾過ろかすべく、まずは心構えを整えた。

「だって美里みさとちゃん、まねするんだもん」

「まねする?」

 淳美は、目を瞬いた。――真似。

「そうだよ、美里ちゃんはずるいんだよ、亜理紗ありさちゃんの絵をまねして描いたんだよ、ほら!」

 一人が訴えると後の二人も勢いづいて、丸めた画用紙のゴムを外して解き放った。

 はらりと広がる色彩は、一面の海老茶えびちゃ色だった。剪定せんてい痕の年輪を描いた伽羅きゃら色や、散りかけの花びらの桃色がとびきり明るい、四月の末の桜の絵だ。

 それは、今年の春に淳美が三年生の子たちを連れて、校内の写生会を行った時の絵だ。完成した絵は、プールと多目的ホール脇の壁に展示されて、今日その期間を満了した。一学年につき一クラスしかない小学校の三年生である三十人は、今日一斉に絵を持って帰ることになる。

「あっちゃん先生、ここ。桜の木の、まんなか。緑の点々があるでしょ?」

「うん、見えるね」

「それを美里みさとちゃんが、まねしたの! 美里ちゃんの絵は、パクリなんだよ!」

 女の子たちの一人、亜理紗ありさがツインテールを揺らして顔を上げた。淳美をじっと睨む目には、不当な理不尽に晒された怒りが、高い純度で浮かんでいる。この少女にとっての真実を、淳美はありのまま受け止めてから、改めて絵画の桜と向き合った。

 画用紙いっぱいに描かれた桜の巨木は、『四時四十四分に裏門前の桜を見上げると、現れた死者に黄泉よみの国へ連れていかれる』という学校の七不思議の一つに数えられるソメイヨシノだ。花の盛りは怖気おぞけをふるうほど美しく、老若男女問わず人々の話題を攫うのも頷ける。

 豪快なタッチで描かれた幹の中央に、問題の『緑の点々』はあった。花びらがほとんど散り、新緑の季節を迎えた桜の幹から、新芽が顔を出していたのだ。

「綺麗だね」

 自然と淳美は、そう言った。誰にも気づかれない小さな命の芽吹きを見逃さない感性が、こんな状況であっても淳美にとっては愛おしく、溜息が零れそうだった。

 だからこそ、子どもたちの眉間に皺が寄ったままでは、この画用紙に写し取られた命も悲しいだろうと、淳美も淳美なりの良識と照らし合わせて、純粋に思ったのだった。ふっと気負いなく微笑むと、淳美は子どもたちと目を合わせた。

亜理紗ありさちゃんの絵を見た時に、先生は初めて幹の新芽に気づいたんだよ。あの裏門の桜にはこんな顔もあるんだよってことに、気づいていない子もたくさんいたね。亜理紗ちゃんの絵は、それを周りのみんなにも伝えることができる絵だよね」

 三人の女の子たちはくすぐったそうな顔をしたが、不服そうな顔でもあった。分かっていながら、淳美は淡く笑って続けた。

「先生は、みんなが絵を描く姿も見ていたよ。亜理紗ちゃんが気づいた素敵なものに、もしかしたら他にも気づいた子がいたのかもしれないね」

「あっちゃん先生は、ちゃんと見てくれてたの? 本当に?」

「そうよ。亜理紗ちゃんも、真紀まきちゃんも、千穂ちほちゃんも。それに、美里ちゃんも。先生は、みんなのことを見ていたよ」

 女の子たちはもじもじしたり、やっぱり不服そうにしたり、くるくると百面相を披露してから、最終的には笑顔で門へ歩いていった。淳美は深く息を吸って、トマトクリームスパゲティみたいな優しい色の空を見上げた。三人とも、根は優しくて良い子たちなのだ。ただ時々少しだけ、桜の木の根っこが出鱈目でたらめに地面を割ってのたうつように、まっすぐ綺麗にとはいかないだけで――それはおそらく、淳美も同じだ。吸った息を、深く吐いた。

 教師としての言葉の重みを、考えない日は一度もない。新しい出会いを積み重ねている真っ最中の無垢むくで幼い子どもたちが、いつか大人になった時に、今日の出来事を懐かしく振り返る日がくるかもしれない。この瞬間の淳美の言葉が、誰かにとっての永遠の言葉になるかもしれない。

 教師の仕事は、やりがいがあって楽しい。淳美たち大人が考えつかないような発想力と行動力を持つ子どもたちとの毎日は、新鮮なわくわくに満ちている。だからこそ、時々思うのだ。楽しさを噛みしめるたび、決して目には見えない重みと、無視できない深淵のくらさに震えるのだ。

 走り去っていった美里みさとが、淳美に短い間だけ向けた目は、世界中でたった一人だけになってしまったみたいに恨めしげで、露原菊次つゆはらきくじの入院が決まった日の浩哉ひろやの顔に、根っこの部分が似ている気がした。

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