第3話 津久見 才

 その人は、恭一の隣に立つ男に微笑むと、

大樹だいき。来てくれたんだね」

「ああ。チケット買っちゃたんだから、仕方ないだろ」

「買わなきゃいいのに」

 その人は、片頬を上げて笑んだ。隣の男は、はーっと大きく息を吐き出すと、

「うるせーな。そんなのオレの勝手だろ。オレが来ないと、客が減るぞ」

「いいよ、別に」

 そう言って、声を出して笑った。ステージでは、冷たそうな容貌そのままに冷たい視線を客席に送っていた。それが、今は破顔している。ギャップに驚いた。


「そんなこと、言ってていいのかよ。バンドの要のくせに」

「え。オレは要じゃないよ。あの人がいれば、このバンドは成り立つだろう。みんな、ミハラくんを見に来てるんだから」

「オレは違う。お前を見に来てるんだ」

「へー。知らなかったよ」

 暖簾に腕押し、とはこういうことを言うのだろうか。

 その人の言葉に、隣の男はいらいらしているようだ。

「なんでお前は、こんな……」

 言いかけて、さすがに口を閉じた。

 こんな……、なんと言おうとしていたのだろうか。恭一には、まるでわからなかった。


「まあ、いいじゃん。それよりさ、大樹。この子、お前の知り合い?」

「知らねえよ。たまたま隣にいるだけだ。で、話しかけてた」

「またアスピリンの悪口を吹き込んでた?」

「違う。真実を伝えようとしてたんだ」

「あ、そう」

 その人は、大樹の言葉など、意に介さない。涼しい顔をしたままだ。


「ねえ、君。名前は?」

 その冷たい容貌のベーシストが、恭一に向き直って訊いてきた。恭一はつばを飲み込んでから、

「矢田部恭一です」

「オレはね、津久見つくみさいっていうんだ。初めまして。アスピリンのベーシストです。曲書いてるのもオレです。それで大樹はオレを責めてるんだ。あの曲たち、つまんないって。わざとああいう曲を書いてるオレに向かって、なに言ってんだろうね、この人」

 なかなか辛らつだ。容貌のせいで、余計にそう聞こえる。大樹は津久見の肩を強くつかんだ。と、津久見は大樹に強い視線を向けた。


「大樹。オレは、ベース弾きだけど、ピアノも弾くんだって言ってるだろう。乱暴につかむなよ」

 その言葉が効いたようで、大樹はすぐに津久見から手を放し、「ごめん」と言った。が、恭一は、ベースだけ弾いているなら肩を強くつかんでもいいのかな、と思った。


 それが顔に出てしまったのだろうか。津久見はにやりとして、

「あ、今、矢田部くんさ、何を思ったか当てようか? ベースだけ弾いてるなら肩を強くつかんでもいいのかな、とか、そんなでしょ」

 当たっている。


「何でかって言うと、クラシックピアノはね、楽譜があってその通りに弾かなければならないんだ。だけど、ベースはオレが弾けるように作曲すればいいんだから、肩を怪我したらそれでも弾けるようにアレンジするとかできる。そういうことなんだ」

 恭一が黙っていると、津久見は、

「そうだ。矢田部くん、明後日夕方の五時にスタジオMってところに来てよ。いいよね?」

 疑問形だが、断れないような強さがあった。恭一は頷き、「わかりました。場所教えてください」と言ってしまった。

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