会場

 右の扉の大きな把手を握り、静かに手前に引く。隙間から白熱灯の淡いオレンジ色の光が漏れ出るとともに、ナフタリンの強烈なニオイが鼻を突いた。防虫剤や防腐剤でお馴染みのあのニオイだ。


「こんにちはー……」


 扉の隙間から身を滑り込ませる。予想に反してというか、予想通りというべきか、会場内にも人の姿はなかった。


 代わりに、種々雑多な動物の剥製が、床を埋め尽くすようにして至るところに並べられていた。その数は異常とも言えるほどで、先の見通せない部屋の奥まで延々と続いている。ところどころに設置された白熱灯の効果なのか、精巧に作られたそれらは今にも動き出しそうでもあり、たとえ生きている動物が混じっていてもなんら不思議はないように思えた。


「え? うわっ、すごーい!」


「ニオイの原因はこれか。にしても、なんで誰もいないんだ?」


 これらの剥製が出品物だとして、その出品者たちや審査員はどこへ行ったのか。観覧者が私たち夫婦二人だけというのも妙である。


「見て見て! アルマジロの剥製があるよ。え、こっちのはなに? こんな動物、見たことなーい。なんか博物館みたいですごいね」


 はしゃぐ妻を尻目に、私は彼女が指摘したアルマジロの剥製を見つめながら言い知れぬ不安を感じていた。


 アルマジロに似た動物でセンザンコウというのがいる。日本には生息していない絶滅危惧種で、剥製はおろか生体の国際的な取引も禁止されている。数年前にフリマサイトに剥製が出品され、ちょっとしたニュースにもなったから覚えているのだが、目の前のこれはアルマジロではない。


「稜ちゃん……ちょっと、こっち来て……」


 妻が不安げに呼ぶ声で我に返った私は、暗がりでなにかを真剣に見つめている彼女のもとへ、ところ狭しと並ぶ剥製にぶつからないよう身をかわしつつ近づいていった。


「どうした? まさか人間の剥製でもあったのか?」


 冗談のつもりで言ったのだが、ゆっくりと振り向いた彼女の目は大きく見開かれ、その瞳はただならぬものを見たかのように小刻みに揺れていた。


「おいおい……いくらなんでも……」


 妻の隣に立ってくだんの剥製へと目を向ける。それは孔雀とヘラジカのあいだに隠れるようにして置かれていた。もちろん人間ではない。小型犬、おそらくチワワだと思われるそれは、他の動物たち同様に素晴らしい仕上がりなのだが、どういうわけか鼻先のマズルの部分が削ぎ落とされ、代わりに人間の赤ん坊の顔らしきものが造形されていた。


「なんだよ、これ……気持ちわる……」


「本物じゃないよね……」


「当たり前だろ。人面犬とか、いつの都市伝説だよ。誰かが酔狂で作ったに決まってる」


「そう……だよね。でもホント、すんごいリアルにできてる。赤ちゃんの顔から実際に型取りしたみたい」


 型取りという言葉で私はすぐに、故人を偲ぶ遺品として作られるデスマスクを思い浮かべた。もしや本当に故人の顔から型取りしたのではとも考えたが、それにしたってわざわざ動物の顔面と差し替える意味がわからない。故人を偲ぶどころか、これではただの冒涜である。


 まじまじと人面犬の剥製を眺めていたところ、突然Tシャツの袖をぐいぐいと引っ張られて軽くよろけた。「ちょ、そんなに引っ張るなよ」顔を上げると、奥の暗がりのほうを向いて立つ妻の背中が見えた。


「今度はなにさ?」また悪趣味な剥製を見つけたのかと彼女の隣へ並ぶなり、薄明かりにぼんやりと浮かぶ、天井まで届く巨大な物体に目をみはった。特徴的なフォルムからキリンだとわかる。長すぎる首は半ばあたりから天井に沿ってぐにゃりと曲がり、ちょうど私たちを右目だけで見下ろしている。


「でかっ! こんなもん、一体どうやって……」


「ねぇ……首のとこ……」


「ああ、曲がっちゃってるな。この部屋の天井もそこそこ高いけど、やっぱキリンレベルになると」


「そうじゃなくって!」


 急に大声を出した彼女に私は思わず身を震わせ、「びっくりしたぁ……なんだよ、いきなり」と少しばかり苛立った声で訊いた。


「首、首のとこ……見て……よく見て!」


「首首って、曲がってる以外に特に変なところは……」


 照明で逆光になっているのと、網目状の模様に紛れてわからなかったのだが、目を凝らしてみてようやく彼女が訴えているものを理解した。人の顔である。さっきの小型犬と同じく、人の顔を模したものが人面瘡よろしく首いっぱいに無秩序に浮き出ている。先ほどと違うのは、様々な年齢層の顔面が並んでいることだ。


「あれ……あそこ……あの折れ曲がってるとこの下あたり」妻は震える手でキリンの首の一点を指差した。「あの二つの顔……なんだか、わたしたちの顔に似てない?」


「はぁ? バカなこと言うなよ。そんなわけ」


 キリンの剥製を見上げていた私は、ふと奇妙な事実に気づくと同時に、背筋に冷水を流し込まれたような感覚になった。この剥製は外から運び込まれたのではなく、私たちがいるこの部屋で作られたのだ。そうでなければ、キリンの首が天井に沿って曲がっている説明がつかない。


「なぁ、そろそろ出」右隣へ顔を向けると、つい今しがたまでそこにいたはずの妻の姿が消えていた。「杏奈?」周りを見回し、少し声を張って再び彼女の名前を呼んでみたが返事がない。


「杏奈? どこだ⁉︎ おい!」


 気味が悪くなって先に外へ出たのかもしれない。妻の後を追おうと狭い通路を引き返そうしたところ、視線を感じてもう一度キリンの剥製を見上げてみた。光の宿っていない大きな黒い瞳と目が合う。全身の肌が粟立つのを覚えた私は、きびすを返すなり急ぎ足で部屋の扉のほうへと向かった。




 家屋を出て車へ戻ってみたが、車内に妻の姿はなかった。電話をかけても繋がらない。サービスエリアの建物内を一巡りし、トイレの前で少し待ってみても彼女は現れなかった。


 一体どこへ行ってしまったのか。再び車の前まで戻り、途方に暮れ始めた私の視界の端に、骨董市のブルーシートが映った。品評会のことを教えてくれたあの老人なら妻の顔を見ている。私は一縷いちるの望みを抱いて人々の中に彼の姿を探した。


「詮索するのは、よしなさい」


 突然、背後から聞こえた老人の声に振り返る。


「どうしたの?」


 どういうわけか、妻が不思議そうな顔で私を見ていた。


「杏奈! おまえ、どこ行ってたんだよ。急にいなくなって」


「はぁ? それはこっちのセリフ。稜ちゃん、車降りてすぐどっか行っちゃうんだもん。電話にも出ないし。ずっと探してたんだから」


 どうも話が噛み合わない。品評会会場で見た剥製の話をしてみると、妻は訝しげな表情で「剥製? なんのこと?」と首を傾げ、すぐに相好を崩すと「あー、わかった。車に戻って寝てたんでしょ。ホント勝手なんだからぁ」と呆れたように言った。


 あの地下室での体験が白昼夢の類だったのか否か定かではないが、私の鼻腔には強烈なナフタリンのニオイが、こびりついた汚れのようにたしかに残っていた。



                               了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

品評会 混沌加速装置 @Chaos-Accelerator

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説