第2話 古典的な衝突

 目を開けると、白い天井が広がっていた。静まり返る部屋を隅から隅へ視線を追った。色褪いろあせていた視界は徐々に色を取り戻していった。外からは鳥たちのささやき声が聞こえてくる。

 

 久しぶりに見る夢だった。忘れたいけど、忘れることのできない、心に焼き付いた記憶。

 

 目をこすりながら時計を見ると思わず飛び起きた。スマートフォンに設定した目覚ましのアラームに気が付かなかったようだ。昨日買った本をずっと読んでいて、遅くまで起きていたのが原因だ。

 

 急いで学校の制服に着替えると、部屋を飛び出して洗面所へと向かった。身支度みじたくを整えて家のリビングに向かうと、もうすでに誰もいなかった。テーブルには朝食が用意されていた。

 

 夏樹が作ってくれたのだろう。ここ最近は部活の大会が近いようで、朝早くから毎日練習にはげんでいる。父も仕事に向かう時間が早い日があり、今日がその日のようだ。つまりは今日は誰も起こしてくれないわけだ。


「昨日もう少し早く寝ればよかったな」


 今更いまさら言っても仕方ないことを言いながら、朝食のハムエッグと食パンを牛乳で流し込んだ。そしてリビングの奥に置いてある写真に手を合わせる。


「母さん、行ってきます」


 写真を見ると、しっかり起きなさいと今にも言いそうな顔に見えた。もし、生きていたらこんな日は起こしてくれたのかなと想像をしてみるが、きっと、クラスの友人たちのように母の愚痴ぐちなどをこぼしているのだろう。と僕は少しおかしく感じ口角こうかくを上げた。


「急がないと」


 玄関を出て鍵を掛けて振り返ると、昨日の雨が嘘のように晴れていた。空気に少しの冷たさと、この時期特有の体にまとわりつくようなやや重い感触がする。スズメたちの声を追って空を見上げると視界には雲一つない青の世界が広がった。梅雨が明けるのも近そうだ。


 僕は駆け足で学校に向かった。通っている高校は家から徒歩で二十分ほどだ。普段はゆっくり歩いて登校している。


 しばらく走ると、住宅地を抜けて大通りに出る。この大通り沿いを行くと通学先の高校だ。有数の、とまではいかないが九割は進学するそこそこの進学校である。僕も卒業後は大学へと進学する予定だが、特に進路は決まっていない、本を読むことが好きなので、家から通える大学の文学部にでも入れればいいか程度に思っているくらいだ。


 やがて交差点に差し掛かると、次第に同じ高校の生徒の歩く姿が見えてきた。ここまでくれば遅刻しないかなと、だんだん安心感がこみあげてくる。みんなが席に座っている教室に入っていって注目を浴びる度胸など、僕にはない。


 交差点の横断歩道の信号は青だ。走る速さを少し上げれば渡れそうだ。ここだけ渡ってしまおうと僕は走る速度を上げた。


 横断歩道に差し掛かるところで、一人の女性が視界に入った。その女性はこちらに気づくことなくそのまま歩き続けている。


「あ! ちょっ!」


 交差点の曲がり角で異性とぶつかるなんて、そんな古典的な出来事が現代に起きるとは思ってもみなかった。しかし、僕はぶつかるタイミングで重心を落とし、女性を避けるように一気に飛んだ。


 刹那せつな、女性と目が合った。緩やかなウェーブがかかり、つつましくも綺麗な茶色にカラーリングされた流れるようなセミロングの髪、モデルのような華奢きゃしゃだが芯のある身体、白のブラウスに紺のタイトスーツから強調される胸部は思春期の高校生には刺激が強い。そしてその目には驚きの色と同時に強い意思を宿していた。


 担任の日野京子先生だ。二十五歳の独身だが年齢をサバ読んでいるとの噂がある。見た目はむしろ若く見えるが、食堂で見かけるとサバ定食ばかり食べていることが噂の発端ほったんである。

 

 僕は視線を日野先生から前に戻した。視線の先にはいつの間にか一人の女子高生が立っていた。

 

 ほほを優しくでるような風でも流れるロングの黒髪、夏服の白いシャツと膝上までの紺色のプリーツスカート、紺のハイソックスに茶色のローファー。振り返った彼女は静かな夜に人知れず降り、やがて溶けて消えていく粉雪のような寂しげな表情をしていた。僕は彼女の表情に目を奪われた。そして彼女と衝突した。



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