スノードーム

森山郷

第1章 君が見ている景色は僕はまだ知らない

第1話 届かぬ距離

 夏の暑い日、僕は家族と川遊びに来ていた。短い命を燃やすように激しく鳴くセミたちの声、川に視線を移せば水はとても清らかで、たまに川から吹いてくる風が、熱い日差しに晒された体を冷やしてくれて心地よい。


「お兄ちゃん! 川で遊ぼう!」


 麦わら帽子をかぶった妹の夏樹が僕を川へと連れ出した。夏樹はこの時から外で遊ぶのが大好きで、今日のことをすごく楽しみにしていた。


 僕はインドア派で部屋の中で本を読んでいるのが好きだった。だけど、共働きだった両親と家族そろっての久しぶりの外出だったので、僕は僕なりに楽しみにしていた。


「深いところあるから気を付けるのよ」


 母の声がした。その声はとても美しく、でもどこか寂しげだった。だけど僕はそんな母の声が好きだった。小さい頃、寝る前は絵本を読んでくれたり、子守唄を歌ってくれた。いつも聞かせてくれた母の声、とても綺麗な声、だけど、どこか、寂しい感じがした。


「おさかなー! かわいいー!」


 夏樹は川で泳ぐ小さな魚を見ながら嬉しそうにはしゃいでいる。


「かわいいかぁ? なんか気持ち悪いよ」


「えぇ、かわいいよー!」


 川で泳ぐ魚は近づいても逃げることなく、水の中でじっとしている。その魚の目をじっと見ていると、だんだん何故なぜこんな形をしているのか、どんな風に見えているのか、まばたきはしないのか等、疑問がどんどん湧いて来て、それがやがてなんとも不気味に思えてくるのだ。これをかわいいと表現する夏樹の感覚に何となく不安を感じたりもした。


 しばらく川で遊んでいると、遠くの方で雷が鳴った。辺りの空気ががらりと変わり、夏草の匂いに不安が混ざる。空を見上げると、川の上流が黒く重い雲におおわれていた。


「気づかなかった、やばいな、車を持ってくるから片づけを頼むよ」


「分かったわ、春人はると夏樹なつき、片づけて帰るわよ」


 父は走り、車を止めている場所へと走っていった。母は慌てるように片づけを始めた。


「えぇ、もう少し遊びたいー!」


「ごめんね、そうだ! 帰りに道の駅に寄って行こうか、お菓子買ってあげるわ」


「ほんとー?」


 駄々だだをこねる夏樹を上手くなだめた母は夏樹の頭を優しくでると、片づけを再開させた。そして片づけが終わると、僕と夏樹を呼んだ。


 川の方を見ると、さっきより流れが激しくなっているように感じた。夏樹は惜しむように川を一度を見ると、こちらに振り返った。


 やがて雨が降り出し、一気に強くなった。僕と夏樹は急いで母のところへ走った。そして風が吹いた。その風は僕らの邪魔をするように夏樹の麦わら帽子を川へとさらっていった。


「なつきの帽子ー!」


「夏樹! だめよ!」


 夏樹は母の静止も聞かず、帽子を取りに行った。そして上流から大量の水が一気に押し寄せ夏樹を川の中へと引きずり込む。


「夏樹!」


 母は川へ向かって疾走すると、夏樹の姿を確認するなり川へと飛び込んだ。川の流れはどんどん激しくなっていった。母は夏樹をつかむと強く抱き、自分の体に引き寄せた。僕は流されていく母と夏樹をただ追いかけていた。必死で、ただ二人を追いかけることしかできなった。


 父の姿を探したが、父は車を取りに行っていて姿が見えなかった。地面が黒く歪む。視界は急に色褪いろあせた。手を伸ばせば、いつも掴んでくれたその手が、今は届かないところにあった。


 母と夏樹の姿が川へと沈んでいく、僕はその光景を見ながら必死に叫んだ。二人に手を伸ばしたが、届くことはなかった。


――春人、夏樹を――


 声がした。とても美しく、どこか寂しげだった。



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