われのみとおもひそひとのみにくしを

最終話

――……未明に起きた火は、消防活動が行われている今なお勢いを増して燃え広がっています。既に多数の死傷者が報告されている今回の火災に対し、県知事の……

 がらりと玄関戸の引かれる音がして、暁ちゃん、とはりのある明るい声がした。

「はい、今行きます」

 つけたばかりのラジオを止めて傍らに置き、ゆっくりと腰を上げる。スカートの前を払うと、膝の裏がひやりと涼しい。十時の方に手を伸ばして触れた茶箪笥を頼りに、玄関へ向かう。少しずつ近づいて聞こえる声は二つ、賑やかなのが義母で、低く聞こえるのが夫のものだ。今年はGWの代休が取れないかもと話していたが、無事に取れたらしい。

 近くで聞こえた声に、廊下へ出たところで足を止める。

「暁ちゃん、孝治こうじ帰ってきたよ」

「おかえりなさい、おつかれさまでした」

 声のする方に向き直って迎えると、ああ、と短い答えが聞こえた。

「まーほんと、仕事仕事てこんなかわいい嫁さん放ったらかしで帰って来ないんだから、まーほんと」

「もういいから、用事済ませて戻ってくれ」

 うんざりしたように返す声に、ああ、と思い出したように義母が言う。

「近所の人から鯛もらったの、冷蔵庫に入れとくね。下処理はしてあるから、あとは孝治にさせて」

「わあ、ありがとうございます。いただきます」

 以前は日本海側に住んでいたからあまり食卓に上らなかったが、瀬戸内ではよくとれるらしい。この時期の島は、鯛を狙う釣り客で大賑わいだ。

「腕を掴むぞ」

 台所の方へ向かう音を追っていると、声がして手が腕に触れる。もう支えがなくても家の中なら困らないのに、親切な人だ。顔を上げて笑むと、見えなくても照れたのが分かった。

 といっても私達は、世間で言うところの夫婦とは少し違う。

――ペライチの契約ですが、私にできることが格段に増えます。

 追い込まれた状況に万策尽きたらしい夫……「中室」が、婚姻届を滑らせたのは二年前だった。

 私が中室を頼り、あそこを離れたのは三年前の十二月だ。最初は、誰にも告げず一人でやり遂げるつもりだった。でも家の処分やもろもろの後始末、そして「素人考えでは逃げ切れないかもしれない」可能性を考えたら、誰かを頼るのが得策に思えた。当時の候補は二人いたが、櫛田は千聡に弱いし後輩だ。やっぱり、後輩に重荷を背負わせるのは気が引けた。

 その点、中室は私が頼っても揺るがないほどには強く見えたし、確固たる信念を持って行動していた。とはいえ、謹慎中でただでさえぎりぎりのところに「逃げるのを手伝って欲しい」なんて電話がかかってきたのだ。受け答えはいつもどおり冷静だったが、胸中は凄まじいことになっていただろう。

「どうした」

「前の、謹慎中に電話かけた時のこと思い出したの。冷静だったけど胸の内はすごいことになってたんだろうなって」

「ああ、あん時か」

 思い出し笑いをした私に夫も笑い、私を縁側の座布団に座らせた。光溢れているであろう新緑の庭を見ることはもう叶わないが、開け放った窓から吹き込む潮風の心地よさと匂いはちゃんと分かる。

「どうしようってのはなかったけど、『この人ほんと男見る目がねえな』とは思ったわ。そこそこ知ってる男なら、同僚でも友達でも動かせてただろうからな」

「そんなことないよ。動いてくれそうな人、櫛田くんと孝治さんしか思い浮かばなかった」

「だから、俺達しか思い浮かばねえ時点でアウトなんだよ」

 夫はまた笑いながら、隣にどさりと腰を下ろした。

 夫は最初、私の願いに応えて隣県のシェルターを紹介してくれた。表立ってはDVから逃げて来た女性達の住まう場所だったが、私のように特殊なケースも受け入れていたのだろう。入所の理由は「事件関係者」で、それ以上は秘匿とされた。

――早く逃げなさい。

 最後に私を抱き締めて、父は二度目の言葉を口にした。

 鹿火の呪詛はひとまず、あの日を以って解体された。祖父母と若い僧侶が惨殺された一件はそのまま純香の犯行となり、事件自体は被疑者自殺による書類送検であっさりと終結した。

 ただ、今回ばかりは人の口に戸を立てることはできなかった。

 官僚の町川でも、さすがに握り潰せなかったらしい。当初は『いじめは凶行へ エリート妻の止まらぬ加害』として純香と「亡くなった妹」による悪行を報じていたメディアは、やがて町川の愚行を暴き始めたのだ。話題はそこから政治家の汚職事件へと流れていき、事件はほどなく報道の価値を失くして表舞台から消えた。

 私も「悲劇のヒロイン」を求めるメディアから逃れられず、最低限の処理を済ませて逃げ出すまではそれなりの心労を負わされた。仕事は、彼らが無礼な来校をした日に退職を選んだ。その日から取材の足は急速に私から退けていったが、別に反省したわけではない。私に近づくと「不幸が起こる」のが、彼らの共通認識となっていったからだ。

 寺では寄付金の横領を理由に住職が解任され、千聡が後を継いで住職となった。それを待って奥様は離婚し、元住職を寺から追い出したらしい。千聡を自分の子だと認めなかった夫だ。

――暁ちゃん、千聡と結婚してくれないかしら。

 人の掃けた通夜振る舞いの席で、喪服姿の奥様は落ち着いた声で初めての提案した。古希を過ぎたとは思えない美貌に穏やかな笑みを湛え、やっと準備が整ったのよ、と満足そうに付け足した。

「大丈夫か」

「あ、ごめんなさい。少し思い出しちゃって」

 懐かしい息苦しさに胸を押さえた私の背を、夫は宥めるようにさする。

「それはともかく、仕事はどう?」

 異動は昨年、今度の職場は県中部にある農村地帯だ。刑事課は独立せず、「生活安全課」の中に係として存在している。櫛田はその前年に、県西部のそれなりに大きい管轄へと異動したらしい。最後に連絡を取り合ったのはいつだったか、逃げる計画は知らせなかった。

「ああ。ど田舎は平和なもんだ。まあ我田引水の角で問題が起きやすい時期に入ったから、多少ぴりついてるけどな」

 夫は大学進学を機に家を出て、そのまま向こうに居着いた口だ。最初の結婚は二十代後半、刑事課に配属される前だった。娘は刑事課二年目の時に産まれたが、里帰り出産をした元妻はワンオペを恐れて帰って来なかったらしい。

――毎日帰って来い、子育て手伝えって言われても、できる仕事じゃねえからな。まあ仕事と家庭で仕事を選んだって言えば、それまでだけど。

 今年十二歳になる娘は八年前から違う苗字を名乗るようになって、養育費もいらなくなった。その時から、一度も会っていないらしい。

 そんな「二度と結婚しねえ」はずの息子が一回りも若い、しかも全盲の嫁を、連れて帰っただけでなく預けて行ったのだから、義父母が慌てに慌てたのは仕方のないことだ。でも同時に、身寄りと視力を失くした境遇に深い同情も寄せてくれた。その結果、こうして離れを与えられて多大な支援を受けている。

 義母は最初、全盲の私を息子が「たぶらかした」のではと大変に気にしていたが、知り合ってから全盲になったと知って安堵した。島で暮らしていた頃は、なかなかにヤンチャだったらしい。今もその片鱗が残っていないわけではないが、私には優しい夫だ。GWの休みをずらして帰って来た理由も、分かっている。

「明日は、何か予定ある?」

「いや、家でごろごろする」

 予想どおりの内容に笑みで頷き、膝を叩く。少しの間を置いて膝に下りた重みを受け止め、手を伸ばす。指に触れる、少し固い癖毛を撫でた。

「髪、伸びたんじゃない? 散髪に行って来たら?」

「島の店は、漁師カットとパンチの二択しかねえ」

 パンチパーマ姿は一層迫力が出て良さそうだが、出すぎるのも問題か。ふふ、と笑う私の手を、不意に夫が掴んだ。指が引っ掛かったか。

「ごめん、痛かった?」

 謝る私に、いや、と短く答えて夫は間を置く。何かあったのだろうか。耳を澄ましても、浜で鳴く鳥の声しか聞こえない。見えないと、こういう時は不安になる。

 やがて指に触れた固い感触には覚えはあったが、でも、いいのだろうか。

 左手薬指に収まった二度目の輪を、自分でも確かめてみる。大きすぎることも小さすぎることもない、ちょうどいいサイズだった。

「すごい。刑事って、指輪の号数まで分かるんだ」

「そんな能力ねえよ。正月、寝てる時に紙巻いてサイズ測ったんだよ」

 それにしたって、全く覚えがない。

「ありがとう、嬉しい。でも、結婚記念日は明日では?」

「こっぱずかしいだろ」

 まあ、イベントに花束を買ってくるようなタイプじゃないのは分かっている。

「ペライチの契約とはいえ、二年続いたしな」

 続いた言葉に、少し苦笑した。

 夫が「ペライチの契約」を提案したのはシェルター退出後、視覚障害者用のグループホームで過ごし始めて一年二ヶ月経った春だった。

 私の視力はシェルターに滞在していた一ヶ月ほどの間に完全に失われ、光も感じられない全盲となった。呪詛の後遺症なのは理解できたが、地元には戻らず提案されたグループホームへの入居を選んだ。その時も、私に代わり契約関連や交渉を全て引き受けてくれたのは夫だ。おかげで偽名での入居も許されたし、環境も悪くなかった。財産だけはあったから、死ぬまで過ごそうと何も問題ない、はずだった。ある職員に使い込まれるまでは。

 事件の発覚は、ほかの職員達の疑惑が発端だった。ある時から突然金遣いが荒くなり車やブランドものを買い始めた職員に、まさかと思い管理台帳や出納帳を調べたらしい。その結果、帳簿をうまくごまかして、私の通帳から計三千万を着服していたことが判明した。

――見えないくせに、こんなにお金持ってたって仕方ないでしょ!

 彼女は刑事事件で起訴されたが、結局最後まで謝罪はなかった。ただ問題はそこ……にもあったが、厳重に伏せられるはずだった私の本名が裁判資料の中で流出してしまったこと、他人に資産管理を任せるリスクが健常者よりも高いこと、捜査や裁判のあれこれが「赤の他人」状態の夫には死ぬほど面倒くさいことの三つの方が重要だった。

 そして選択を迫られた夫(と秘密を監視下に置いておきたい警察)は、責任感に基づき二度目の結婚を提案したのだ。

「いや、いい言い方じゃなかったな」

 呟くような声に、再び髪を撫でていた手を止める。

「これからも、よろしく頼む」

 重ねられた手には私と同じ、これまでと違う感触があった。胸にじわりと湧く熱に、長い息を吐く。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 答えると、夫が頷いたのが分かった。

「でも面倒になったら、目移りする前に言ってね。あとだとちょっと、瀬戸内海に」

「ねえからやめろ」

 夫は遮るように返して、体を起こす。空気の質が変わったのは、なんとなく分かった。怒らせてしまったかもしれない。肩に触れた手に、びくりとした。

「冗談でもそんなこと言うな。ただでさえ、ろくに傍にいられねえのに」

 引き寄せられた腕の中で、切々と継がれる声を聞く。力を込め直す腕に頷いて、目を閉じた。



 響いた呼び鈴に、ぼんやりと目を覚ます。朝、か。隣を確かめたが夫の手触りは既になく、頭をもたげると味噌の香りが嗅ぎ取れた。廊下の軋む音に、夫の移動を確かめる。

「今の時刻は」

 枕元を探り、相棒となって久しい携帯を手にする。

「七時四十九分です」

 まだ八時にもならないのか。夫の帰省を知った漁師が、魚を持ってきてくれたのかもしれない。島の朝が早いのは、いつものことだ。

 あくびをしつつ起き上がると、露わになった背に朝の空気が触れる。小さく震えて、粟立つ肌をさすった。

 これまでも布団を並べて寝てはいたが、夫が手を伸ばしたのは初めてだった。多分、夫の中には明確な線引きがあったのだろう。律儀な人だ。

 昨日収まったばかりの指輪を撫でた時、再び廊下が軋み始める。挨拶の声は聞こえなかったが、用は済んだのだろうか。

「孝治さん、誰だった?」

 廊下の方に呼び掛けたあと、思い出して布団をたくし上げる。まだちょっと、明るいところで見られるのは恥ずかしい。布団を抱いたまま箪笥へと伸ばした手が、止まった。

 ぞわりと肌を撫で上げた感覚には、覚えがある。今のは、寒いからじゃない。

「……孝治さん?」

 目を見開いても何も見えないが、何かが近づいてくるのだけは分かる。耳を澄ませば少しずつ、足音以外の音が聞こえ始める。衣擦れの音と、あとは。

 しゃら、と澄んだ音がした。

 全身が汗を噴き、布団を握り締める手が震え始める。逃げなければいけないのに、座り込んだきり体が動かない。少し建てつけの悪い障子が引かれて、衣擦れの音が鮮やかに聞こえた。でも、届いたのは音だけではない。久し振りに嗅いだ鼻を突くこの臭いは、血だ。

 ……我のみと思ひそ人の見悪しを。

 胸を占めるのは、信じたくない予感だ。息苦しさに震える手で胸を押さえ、途切れる息を吐く。

「孝治、さん」

 小さく呼んだ時、膝の上に何かが落ちた。ずしりとした重みに、泣きたくもないのに涙が溢れる。心許なく揺れる指先を伸ばし触れた先には、馴染んだ癖毛の流れがあった。

 ああ。

「暁」

 耳元で囁く、温度のない声に俯く。

「帰ろう、もうすぐ片付けが終わる」

 背後から伸びた手は、目隠しをするように私の瞼を撫でていった。

「もう、逃げないでくれ」

 薄く開いた隙間から勢いよく滑り込んだ光は眩しく、奈落のように悍ましかった。



                          (終)

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奈落の淵より冥きもの 魚崎 依知子 @uosakiichiko

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