第33話

 覚えのある感覚にいやな予感を抱く向こうで、けたたましい音を立てて本堂の扉が蹴り倒される。

 月の光と共に乗り込んできたのは憑き物と化した……おそらくは、純香だ。

「暁、見るな!」

 千聡の声がして、目の前が暗くなる。

「見せてやれば良いではないか、大事な家族だろう」

 含み笑いの声と指を弾く音がして、再び光が戻る。数度瞬きをしたあとに見つけたのは、冷たい床に転がる三つの頭だった。祖父と祖母と、名も知らない若い僧侶の。

「いい……きみ、よ……ざまあ、み、ろ……きよ、らを……ころ、した、くず……が」

 真っ白になった頭の中に、卑屈な声が滑り込む。確かに奥様によく似た、純香の声だった。気持ちの悪い四肢から粘液を滴らせながら、純香は存在しない目で私を睨む。大きく割けた口を更に左右に引き上げて、下卑た声で笑った。

 呆然と見つめる視界が、不意に滲む。瞬きすると、涙が勢いよく流れて顎を伝った。

 この人達に、なんの罪があったのか。荷物にしかならない私を快く受け入れ、心無い蔑みや理不尽ないじめから守り、ただ「大切にしてくれただけ」なのに。

――どんなことがあっても、じいちゃんばあちゃんは暁の味方だ。なんでも言えばいい。

 温かな声を掻き消すように、腹の底で何かが湧く。いつもなら抑えていただろうがもうどうでも、私が「善人」でいる必要は、たった今消えたのだ。

「暁!」

「悲痛な声を出すな。結界を解いたお前に、これが予想できなかったと?」

 鼻で笑う鹿火に、千聡を睨む。守ると言ったのに。

 千聡は苦しげに顔を歪めて視線を逸らした。

「暁を確実に救うには、これしかなかった」

 やがて聞こえた言い訳に、消えない疑いが湧く。

 本当に、それだけだと?

 行き場のない手で頭を掻きむしり、強く唇を噛んだ。

――逃げろ! 管理人のおじさんのとこに行くんだ!

 父の声が、繰り返し蘇る。父は、母は、これほどの犠牲を出しても私を生かしたいと願ったのだろうか。こんなことになっても生き残って欲しいと、私の命にそれほどの価値があると……親なら思うのだろうか、分からない。

 脳裏にちらつく先代の言葉が燃え落ち、目まぐるしく移り変わる過去の記憶も全て黒く塗り潰されていく。私には、もう無理だ。

 もう、好きにしてくれ。殺すなり蝕むなり、好きにすればいい。

 放棄するのを待っていたかのように、腹の底で蠢いていた黒い波が私を覆い尽くしていく。痛みはないが何も見えないし、音も聞こえない。

 やがて、すとんと全てがどこかへ落ちて、消えた……「消えた」?

 突如として響き渡る鹿火の笑い声に、いつの間にか顔を覆っていた手を下ろす。

「よくやった、我が呪詛はこれで完成だ。玉体は最早、保つことはできぬ!」

 玉体? 力の抜けた体を支えつつ視線をやると、崩れて膝を突いた千聡が黒い靄に包まれていた。見えない顔は、いつか見たものと同じだ。

「どういうこと?」

 呆然と呟く私に、拘束を脱し立ち上がった鹿火が機嫌良さそうな声で笑う。

「我がかつて幼きお前に植えつけたものは、お前の昏き思いを吸って成長する呪いの根。玉縒本家の血脈を触媒とし末裔の血を以って完成する、玉体を滅ぼす呪詛の根幹よ。あれの祖父はその根を己に移し、巧みな術と己が命で抑え込んだまま死んだ。あれはその後を継いで身に引き受けたが、術師としては祖父に遥かに及ばぬ。今、お前の昏き思いを一度に受けて呪いに食い尽くされた」

 「たまはうつくし」の「玉」は玉縒ではなく、玉体だったのか。

 途端に規模の大きくなった話に、場にそぐわない笑いが漏れる。こんな片田舎で、私のせいで玉体崩御の呪詛が完成するなんて、馬鹿じゃないのか。

「もう、お前に用はない。お前が命を落とすのは、その身に流れる血のため。恨むのならば親を、祖である守禦を恨め。あれが我の邪魔さえせねば、お前の父も母も、誰も死なずに済んだのだ」

 戦う意志どころか生きる気力さえ失った私を蔑む視線で見下ろし、二本の指先で宙に何かを描く。璃子の時にはあれほど抗った死の恐怖も、今はもう感じなかった。

「憐れな娘よ」

 私に向けて、何かを押し出すように指先を動かす。次の瞬間、破裂音と共にその手が弾け飛んだ。見慣れてしまった反応に視線をやると、黒い靄を纏う千聡が膝に法具を突き刺していた。痛みで正気を保ったのか。

「小賢しい坊主が!」

 舌打ちをして残る手を千聡へ向けた鹿火に、咄嗟に掴んだ守禦の弓を振り下ろす。錫杖のようにはいかなかったが、やはり手応えはあった。

 ややこしいことを考えるのはあとだ。

 怯んだ鹿火に再び叩きつけようとした弓は防がれるが、弓柄を握る枯れた手が爛れていくのが見える。ダメージがないわけではない。

 この間にどうにかできればいいが、千聡は耐えるのが精一杯で動けそうにない。千聡から、あの呪詛を引き剥がさなければ。

 一瞥した純香は、戸口で見えない壁を殴り続けて血塗れになっていた。あれに移せば、大変なことになるだろう。

「明真さん、あなたも術は使えるの?」

 尋ねた私に、読経をやめて明真が振り向く。

「使えないわけではありませんが、私はまだ駆け出しです」

「あの呪詛を、私に移すことはできる?」

 私に移せば、その間に千聡がどうにかできるはずだ。できると信じるしかない。

「滑稽な。返したところで、あれにどうにかできるとでも? 抑え込むどころか餌を与え続けた男だ」

「やってみないと分からないでしょ!」

「ならば、小僧に頼む必要はない」

 鹿火は笑って飛び退き、空中に何かを描く。指先で押し出すような仕草をした途端、風を受けたかのように靄が揺れた。指先を上へ動かすと、靄が引き剥がされて宙に浮く。靄から解放されたばかりの千聡は朦朧とした様子で頭を揺らし、ぼんやりと私を眺めた。

「あとは、頼むね」

 託して笑った私に、はっとした様子で身を乗り出す。やめろ、と叫ぶ声は黒い土砂が降り注ぐ音に遮られて、小さくなった。

 全身を突き抜ける痛みに息が止まる。痛みと圧で、指先一つ動かせない。それでも守禦の弓を握り締めているせいか、良くも悪くも意識は残っていた。

 弓を杖代わりにして、黒い靄の隙間から前を見る。凄まじい勢いで純香が床に叩きつけられ、本堂が軋んだ。

「あれで僧侶とは、よく言えたものよ」

 響き渡る絶叫に、隣の鹿火が鼻で笑う。警察署で聞いた音より激しく砕ける音に劈くような悲鳴が上がる。これが、「勝算」だったのか。

 荒い息を吐きつつ、ようやく本腰を入れ始めた隣の鹿火を見上げる。ぶつぶつと呟きながら宙に忙しなく何かを描く仕草は、やはり千聡の術とは違う。

 聞こえた舌打ちに前へ視線をやると、呻く純香の上にどこかから落とされた憑き物達が次々と積み上げられていくのが見える。清良、澤田、加東か。更にその上に叩きつけられたのは朝晴、そして璃子だった。

 頂上に積まれた璃子は少しも動かず、長い黒髪と臓物を憑き物の山にだらりと垂らす。その片腕には、赤ちゃんを抱いていた。

「黄泉から引き戻したか!」

 鹿火が何かを押し出すより早く、憑き物の山が青白い炎に包まれる。途端に、憑き達は断末魔の悲鳴を上げながら炎の中で藻掻き始めた。璃子は赤ちゃんを掴んだ手を私へ伸ばし、暁、と助けを求める。

 でも私が身を乗り出すより早く、赤ちゃんは璃子の腕ごと燃え落ちて消えた。

 ……こんなやり方が、本当に正しいのか。

 一際響いた悲鳴に、憑き物達の山が少しずつ押し潰されているのに気づく。おそらくは、鹿火の抵抗だろう。燃やして何かを完成させるのが速いか、潰してそれを防ぐのが先か。どちらにしたって最悪だが、嫡男でもない私にできることなど何も。

 嫡男。

 ふと思い立った可能性に、鹿火から這いずるようにして逃れる。

「明真さん、来て!」

 さすがの鹿火も片手では余裕がないらしく、私を横目に見つつも何もできない。できるだけ距離を取ったところに明真は駆けつけて、傍に膝を突いた。

「霊を呼び出せる?」

「格によります」

 即座に答えた明真に頷く。動いたせいなのか、骨の軋むような痛みが走る。荒い息を吐いて噴き出した汗を拭い、靄の向こうに揺らぐ明真を見た。

「玉縒守禦は」

「無理です」

 ためらいのない答えは、予想外ではなかった。やはり守禦は先代レベルか。じゃあ、と切り出して朦朧とし始める意識をどうにか保つ。

「私の父を、玉縒雅美を呼び出して」

「分かりました。ただこの呪詛は」

「分かってる、お願いします」

 先代が守禦を下ろさなかった理由は分かっている。でも、それでも。

「あんな最期が、正しいはずないの」

 訴えた私に明真は頷き、法衣の袖を払って姿勢を整える。数珠を手に読経を始めた明真に、胸の内で父を呼ぶ。

「明真、やめろ」

「黙ってて!」

 私の思惑に気づいた千聡を黙らせ、弓を握り締めてひたすら祈る。守禦でも先代でも誰でもいい、数分でいいから父をここに下ろして欲しい。

 向こうで勢いを増したのは鹿火の術か、潰れる音と絶叫が間断なく響く。こちらの策が助長しているのだろう。早くしなければ、あんな惨めなやり方で消えてしまう。お願い、お父さん。

 お父さん。

「暁」

 聞こえた懐かしい声に、顔を上げる。靄の向こうに見えたのは、薄く揺れてはいるが、間違いなく父だ。スーツ姿の、まるでこれから出勤するかのような凛々しい姿をじっと見上げる。

「おとう、さん」

「よく耐えたな。弓を貸しなさい」

 穏やかな声に頷き、握り締めていた弓を手渡す。支えを失くした体をどうにか保ちながら、すぐに弓を引く父の姿を見つめる。大きく弓柄がしなると、長い矢が現れた。経文のような文字の列が、縒るようにまとわりついていくのが見える。

「おのれ、玉縒の」

「黙れ外道」

 悔しげな鹿火の口上を許さず、父は凍てつくような声と共に矢を放つ。矢は鹿火の放ったどす黒い靄を切り裂き、鹿火の頭を貫いて散った。それと同時に、父の手元で弓も涼やかな音を立てて砕け散る。

「……われのみと、おもひそひとの」

 上の句を呟き終えることも叶わず、鹿火の体は零れ落ちて消えた。それと同時にまとわりついていた黒い靄も失せて、痛みからも解放される。汗ばんだ顔を拭い上げ、深呼吸をした。

 終わったのか。

 痛みの消えた腕をさすりつつ、役目を終えた父を迎える。記憶にあるより精悍だった父の行年は三十七、やはり早すぎる死だった。

「お父さん、ありがとう」

 堰を切ったかのように溢れ出した涙が、勢いよく伝い落ちていく。父は笑みを浮かべて腰を落とし、私を抱き締める。幻だから熱は感じないが、それでも懐かしい感触だった。

「あまり話せないんだ。互いに、未練が生まれてしまう」

 口数の少なさはそのせいか。確かに、感情の籠もった言葉を遺していくわけにはいかないのだろう。

「もう、行かないと」

 父は私の肩越しに溜め息をつき、背中をあやすように撫でる。寂しいが、仕方ない。ただ父は、大人しく従い離れようとする私を呼び、耳元でぼそりと小さく零した。思わず見据えた私の頭を撫でて、立ち上がる。新たな遺言に湧いた動揺を悟られないよう胸を押さえ、深呼吸をした。

 私も腰を上げ、明真の手を借りつつ辿り着いた千聡を迎える。膝の傷はどれくらい深いのか、足袋が血に染まっていた。

「お見送りいたします」

 神妙な声で告げ、千聡と明真が手を合わせる。思わず伸ばした手はスーツの袖をすり抜け、宙を掻いた。分かっていても、未練を残さずとは難しい。

 唇を噛み、私も手を合わせる。揺らぐ視界に消えていく笑みを映しながら、胸でもう一度礼を言う。

 やがて白い靄となった父は、まるで龍が天に昇るかのように消えていく。

 父は、全て見ていたのだろう。

 読経を続ける千聡に湧くまとまりのない感情を持て余して、長い息を吐いた。

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