第32話

 土曜の夜、久しぶりに本堂へ足を踏み入れた。墓地と位牌堂にしか行かなくなって何年か、朝夕の読経をやめ胸に御仏を住まわせなくなってからは遠のいていた場所だ。

 数年前に一部改築をしたと祖父が話していたが、記憶にある姿と特別変わったようには見えない。次々と外陣げじんを畳に変える寺が増えているに関わらず総板張りで、内陣ないじんには繊細な細工美しい天蓋てんがい幢幡どうばんが吊られている。外陣も暗いまま、内陣の絢爛な煌めきが磨かれた床に映る様子は相変わらず幻想的だった。

 でも礼盤に着き読経する千聡の姿を見るのも、本堂に響き渡るその声を聞くのも初めてだ。記憶にある先代の後ろ姿より、二回りは大きい。

 もう一人、千聡に従い経を上げているのは、実家で助けてくれた明真だった。璃子に対峙した経験から採用されたのだろうか。初めて見る顔でないのはほっとしたが、ありがたいとは言い切れない。何かあったらどうするのか。私より守るべき若い命なのに。

「他人の命の心配とは、よほど余裕があるようだな」

 背後から、含んだような枯れた声がした。千聡は気づいた様子で読経をやめ、礼盤を下りる。内陣の灯りを後光のように浴びて下りてくる姿にふと、先代を懐かしく思い出す。

 先代は幢幡の輝きに夢中になった幼い私を抱き上げ、あの細工に触らせてくれた。

――一個ぐらい、もいで帰っても分からんぞ。

 まあ、とんでもないことも言う人だった。もちろん、もがなかった。

 そんな私に先代が華鬘けまんをくれたのは、小学校に上がった頃の誕生日だった。でも日差しの下で煌めく姿が見たくて外へ持って出たら、あっという間に同級生に奪われて川へ捨てられてしまった。先代にはとても言えなくて、「大事にしまっている」と嘘をついた。ちりちりと焼けるように胸が痛んだ。

 懐かしい痛みを思い出す私をよそに、内陣の袂に腰を下ろした千聡は再び読経を始める。灯りを浴びて抜かれた影が、床に伸びた。顔は薄闇に沈んで、この距離からは表情が読み取れない。読経の声に交じり、数珠を擦る音が聞こえる。何度目かの「たかつののかひ」を聞き取った時、背後の「かひ」が笑った。

 床を鳴らす背後の音に驚いて振り向くと、暗がりの中に住職が立っていた。でも目がうつろで、まるで何も映していないかのように見える。操られているのか、ふらつく足で数歩、私に近づく。

――呪詛の類は、求めない限り通らない。肉体を通じても暁には触れないから安心しろ。

 対峙する前、少し痩せた千聡が一層眼光を鋭くしながら言った。食事を断って修行に励むとこうなるらしい。肩回りも、少し薄くなったような気がした。

 間近で住職が足を止め、ぶるりと体を揺らす。

「……つまらん体だが、仕方ない」

 聞こえたのは住職の声ではないし、顔つきも視線の質も違う。「かひ」だろう。「かひ」は体を馴染ませるように手足を振り首を回したあと、冷ややかな視線を私に向けた。

「まさか、玉縒の残り滓がこれほど悪あがきをしようとはな。その間抜け面に免じて、正しき我が名を教えてやろう」

 尖った鼻先で笑うと、「かひ」は豆でも弾くように私に向かい人差し指を動かす。暁、と短く呼ぶ声に向き直るより早く、頭に『高角鹿火』と漢字が浮かんだ。鹿火、か。

「そう、それが我が名だ」

 ぱちん、と指を弾くような音がした途端、体が重くなった。

「暁!」

「呪いでしか殺せぬと思い込んでおるあたり、まだまだ未熟よ」

 駆け寄ろうとした千聡に、鹿火は指先を動かす。突風が千聡の法衣を激しくはためかせ、内陣へ吹き抜けていく。天蓋の装飾が、涼しい音をかき鳴らした。

「『諱を知れば霊的に支配できる』とは真実である。ただお前のような、なんの力もない芥に我が諱を抑えきれるものか」

 急激に増した息苦しさに、吐く息が異質な音を立て始める。十分に吐けないし、浅くしか吸えない。噴き出す汗を拭う余裕もなく、濁った息を吐いた。

 背を丸め、胸を押さえて千聡を見る。千聡が何かを唱えつつ数珠を振ると、行く手を阻んでいた風が消えた。ふん、とまるで楽しんでいるかのような鹿火の声がする。

「さあ、手があるのなら出し惜しむな。間に合わねば、愛しい女が死ぬぞ」

 煽る鹿火に、千聡の顔つきが変わる。経が流れ始めてすぐ、どうにか見上げた鹿火はにやりと気味の悪い笑みを浮かべた。

「なるほど、父親の命を救う気はまるでないらしいな。このような慈悲なき者にも僧侶が務まる時代になったとは、感慨深いことよ」

 満足気に目を細める鹿火……ではない、住職の頬には、見る間に細い傷ができていく。

「まあ、この身にも報いを受ける覚えはあろう。娘達がお前を蔑み虐げたのは、これがそう仕向けたのだからな。己の手は決して汚さず、娘を利用し息子を痛めつけるとは、狂っておるとしか言いようがない」

 機嫌の良い声で高らかに言い放つ鹿火に、愕然とする。

――有前の血を引き継いで術を扱える俺が、妬ましくて憎くてたまらないんだよ。でも檀家の手前、面と向かっては足蹴にできないだろ。だから、俺の一番大切なものを壊そうとしたんだ。

 あれは、そういうことだったのか。

「憎めば憎まれ恨めば恨まれる、これこそ人としてまっとうな道ではないか。かくも人は醜く、見苦しい!」

 はは、と声を上げて笑う口元を何かが切り裂き、血が噴き出る。だめだ。

「ち、さとくん、だめ、やめて」

 苦しい息の間に願った私に、鹿火はまた指先を鳴らした。喉で短く濁った音がして、更に息が苦しくなる。座っていられず、ごろりと転がった。

「一つ予想外であったのは、お前だ。憎むとは、恨むとはそれほど難しきことであったか? 親を殺され、虐げられ蔑まれ、愛しき男を奪われてなお堕ちぬとは」

 見えない壁を踏む足が、法衣ごと切り裂かれるのが見える。だめだ、このままだと殺してしまう。

 浅い息を繰り返しながら、震える手で傍らの笛を掴む。これを、壊せば。

 力の入らない手で床に叩きつけてみるが、まるで反応がない。力が足りないのか。

「しかし人の清さほど、世に不自然なものはない。『あらねばならぬ』で求めるものに、自然なものなどありはせぬ。不自然を求め続ければどうなるか、不自然であり続けさせようとすればどうなるか、浅はかなお前は考えたことすらなかろう」

 余裕を浮かべていた笑みがふと、不快に歪んだ。一瞬住職の体が揺れ、何かが浮き出るのが見えた。

「……小賢しい童は、やはり忌々しく育つものよ」

 憎々しげに零す声は、血の溢れる住職の口からは聞こえない。

「この女に知らせてやったことはあるのか、報われぬ思いのためにお前が何をしてきたか!」

「余計な世話だ」

 千聡が何かを引くように数珠の手を引くと、住職からずるりと黒っぽい影が引き剥がされる。見えた後ろ姿は烏帽子に狩衣の、予想より上品な姿だった。崩れ落ちるように倒れる住職は血まみれで、決して良い状態ではない。

 一方の鹿火は、躊躇なく床に叩きつけられる。肉体はないはずなのに、重いものを落とすような音がした。

「涙ぐましい、努力ではないか。救えば報われると、馬鹿のように信じて」

 耳に痛い鹿火の戯言を聞き流し、少し楽になった体で笛を握り直す。両手で思い切り床に叩きつけてみたが、私の手が痛いだけだった。

 壊すのではないのか。「よりてよりゐよ」とは、どういう意味だ。試しに乗ってみるが、やはり反応はない。

「千聡、くん、だめっぽい」

「とにかくなんかしてみろ、なんでもいい!」

 息も絶え絶えに訴える私に言い渡し、千聡は再び読経を始める。床に這いつくばったまま呻く鹿火を見ると、千聡がどうにかできるのは「ここまで」なのだろうか。

 少し霞み始めた視界に瞬きをし、震えの収まらない指で笛を構える。苦しい息を更に苦しくさせながら吹いてみるが、やはり少しも鳴る気配がなかった。

「お前のような女で一族が絶えるとは、守禦はさぞかし無念であろうよ」

 痛めつけられながらも減らず口を叩き続ける鹿火を横目に、和歌の意味を考える。朦朧とするせいで、思考がまとまらない。笛を杖にして座っているのがやっとだ。

 よりてよりゐよたまはうつくし……依りて寄り居よ「玉」は美し……「縒」は、どっちだ。

 よりてより……もしかしたら。

 荒い息を吐いて体を起こし、笛を持ち直す。「よりてよりゐよ」が、「縒りて縒りゐよ」なら。掴んだ笛を縒るようにひねると、ぱり、と小さく罅が入ったような乾いた音がした。もう一度ひねると、何かが割れる音がして白っぽい靄が立ち上る。

 現れたのは、長い弓だった。

 「縒りて縒り射よ」が正解か。でも弓なんて、笛以上に無縁のものだ。どう扱えばいいのだろう。荒い息を吐きつつ弦を引っ張ってみたが、私の腕力では弓を撓らすことすらできない。嫡男、要は男性が引くことを前提にした切り札だったのだろう。

「残念ながら、その弓は嫡男しか引けぬようにできているようだな。羽虫のように非力なお前は最早、我が呪詛に取り込まれるほかに策はない」

 無力な私を、鹿火が嘲笑う。

「ふざけないで、私は」

「『恨まぬ』と、これを見ても言えるか?」

 鹿火が指を鳴らすと、ぞわりと悪寒が肌を走った。

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