第29話
酒の力か千聡の力か、久しぶりの熟睡を経ての目覚めはすっきりとしたものだった。ただ隣の千聡は、ずたぼろになった白衣のあちこちに血を滲ませて横たわっていた。
「ごめん、死んでるかと思って」
思わず肩を掴んで揺すったら、生きていた。夜明けまで魑魅魍魎の相手をしたあと、爆睡していただけだった。
「死んでたら触らず110番だぞ」
シャワーを浴びて戻って来た千聡は、一足先に朝食の席に着く。注文したルームサービスは、クロワッサンにベーコンエッグ、サラダ、コーヒーと洋食メニューだ。寺は和食だから、外では洋食が食べたいらしい。
「なんだ」
「あちこち怪我してたでしょ。手当てするから見せて」
傍で救急セットをもたげた私に、千聡は苦笑する。
「準備がいいな」
「最悪の事態を想定して準備したから」
「だからあんな大荷物なのか」
千聡は背後に開いた私のキャリーバッグを一瞥した。まあ大体、私の旅行はこうなるのだ。
「かすり傷だから大丈夫だ。もう閉じてるし」
「でも」
「なら、右だけ頼む」
食い下がる私に、千聡は白衣の右を脱いで半身を露わにする。肩の線で分厚さは予想していたが、実物は予想以上だった。
「なんだ」
「……高三の体育祭で記憶が止まってたから、筋骨隆々でちょっとびっくり」
「成長させてくれ」
苦笑する千聡に脳内の違和感をすり合わせながら、手当てをする。背にも腕にもそれなりに深そうな傷はあったが、言葉どおり既に閉じているようだった。
「左は?」
「いや、いい。ありがとう」
尋ねた私に短く答え、白衣を着直す。そういえば、この前痛そうだったのも左側ではなかったか。左、か。
「ねえ。先代は左手が動かなくなって、住職を解任されたんだよね」
「ああ、神経を損傷してな。ただ左手に限らず寄る年波に勝てなかっただけだから、気にするな」
千聡は見下ろす私を見ないまま、食卓へと向き直る。朝晴がどんな嘘をついても少しも見抜けなかったのに、千聡の嘘はそうではない。ただ嘘をつく理由は、朝晴とは違うと知っている。
食べるぞ、と聞こえた声に頷き、救急セットを置いて私もソファに座る。手を合わせ、少し冷めた朝食に向かった。
ホテルをチェックアウトしたあと、今日は千聡の用事で本山へ来た。書庫で「たかつののかひ」を調べたかったらしい。
「ダメ元で調べてみたけど、なかったな」
収穫なしを告げつつ、千聡と観音堂へ向かう道を歩く。用事が終わったあとは、参拝ガイドの役を買って出てくれた。
「ねえ、ものすごく見えるお坊さんに見てもらえばいいんじゃないの? 霊視とか、そういうやつで」
本山ならその手の僧侶はごろんごろんしていそうだが、難しいのだろうか。
「その『ものすごく見えるお坊さん』だった先代が、敢えてしなかったんだ。多分あの世に干渉する方法で解こうとすると、呪詛に悪影響を与えるんだろう。だから守禦もあんなアナログな方法で残したんだ」
なるほど、そういうことか。
「呪詛って、そんな細かく設定できるんだね」
「ここまでのは、滅多にないだろうけどな。しかもそれを九百年持続させる仕組みを構築してる。守禦の暗号がなかったら、俺じゃ太刀打ちできなかった」
ということは、光が見えたのだろう。向こうに見えてきた観音堂らしき建造物から、視線を隣へ移す。
「なんとかできそうな感じ?」
「ああ。あれが諱なら勝算はある。さっき連絡があって、笛も押さえたしな」
報せ自体は良いものばかりだが、「押さえた」のだけは引っ掛かる。
「純香姉さんの荷物の中にあった。遺品整理で清良姉さんの家に行った時に盗んだんだろう」
控えたところに踏み込んだのはわざとだろう。ただ、それよりも気になる言葉があった。
「『荷物の中』って。勝手に調べるのもあれだけど、女性の」
とそこまで言って、口を噤む。……違う。調べたのは、弟子ではない。
「ここが、観音堂だ」
じっと見据える私を気に留めず、千聡は流れるように観音堂の説明を始める。
――あの人はもう、俺に寺を継がせることにしか興味がない。
娘達を盲目的に愛す住職に問題がないわけではないが、それでも。
もちろん悪いのは盗んだ清良や純香なのだから、それを窘めるのは親の仕事だ。話し合いで解決できないのなら、強硬策に出るのは仕方ないだろう。特別おかしなことをしているわけじゃない。寧ろ真っ当な対応のはずだ。でも今は、そう思えなかった。
まさか、純香の身を案じる日が来るとは。
――あとは、あなたに任せます。
中室に託されたはいいが、私に何ができるというのか。
千聡が、純香の関わりに気づかないわけがない。清良が関係していると知った時点で、全容は掴めていなくても分かっていたはずだ。粛清の範疇に入れば、純香が何をどうやって逆藤になりすましたかなんて、最早どうでもいいことだろう。
「さすがだな。御本尊の御力が強くて、暁が暗いことを考えても出てくる気配がない」
感心したように観音堂を眺める千聡に、いやな予感がした。
「御本尊をちょっと削」
「やめて、ほんとにやめて」
恐ろしく罰当たりなことを言い出した僧侶を窘めて、溜め息をつく。
「もう帰ろう、汽車の時間もあるし」
「そうだな。続きはまた、次に来た時にすればいい」
当たり前のように織り込まれた言葉に、思わず視線を逃す。千聡はまるで気づかない素振りで私の手を握り、歩き出した。左手、か。
「そんなに、左が気になるか」
千聡は暗黙の了解に触れ、左の袖を肘の上までたくし上げる。現れた左腕は肘の少し下まで黒ずみ、鱗に覆われているように見えた。でも確かめるより早く、それはまた袖に隠されてしまった。
聞けない理由を飲み、手を引かれるままに黙って歩く。何も知らないままではいたくないのに、全てを聞くのは恐ろしい。さっき見た腕が二度と記憶から消えないように、知れば忘れられない。消したくても消えない類の杭になるのは分かっている。
千聡が「勝算はある」と言うのだから、勝てるのだろう。勝てば、その腕もきっと元に戻る。戻ればもう、逃げても構わないはずだ。これまでの献身を全て、見ないふりして。
息苦しさとせめぎ合う自責の念に、視線を落とす。私は、卑怯だ。
頬を撫でて吹き抜けた風に、思わず振り向く。清廉と佇む観音堂を確かめ、小さく頭を下げた。
昨晩の話の続きは、汽車に乗ってから行う。念のためにと予約したグリーン車は、予想どおり閑散としていた。行きも帰りも先頭の席を予約したから、前で話を聞いてしまう乗客もいない。ありがたいことに、帰りは隣も後ろもいなかった。ここからは事件にかかわることだから、できる限り漏れない方がいい。
千聡は座席に着くとすぐ窓側を選んで座り、カーテンを下ろして座席を倒し寝る体勢だ。寝る前に、まとめを終わらせなくては。
「今回の呪詛の発端は、二十五年前。親族の念で呪詛が目を覚まし、術が親族を操って薬を作らせた。そこに加害者の恨みが加わって発現し、両親を殺して私にも呪いを掛けた。事件のあと、玉縒の祖父母は私に危害が及ばないよう日羽の養女にした」
「親族の圧に負けて我が子を犠牲にしてしまった親の、最後の罪滅ぼしだったんだろう。あの火事は、おじいさんを殺すために起きた。呪詛が一代遡ったんだ。暁のお父さんが死んで、最後の嫡男になったからな。死を悟って、暁だけは巻き込まれないように逃したんだ。愛する我が子の忘れ形見だから」
ああ、と納得して息を吐く。祖父母は我が身を犠牲にして、両親の遺志を引き継いでくれたのだろう。改めて身に沁みる熱に、長い息を吐く。大切なものはちゃんと、何度でも蘇るようになっていた。
「日羽になってからは、ずっと先代が呪詛の発現を防ぎ続けてくれてたんだよね?」
尋ねた私に、千聡は目を閉じたまま頷く。隣から伸びた左手はコンソールを乗り越え私の手を掴み、再び戻って行った。この先は、また息苦しくなるからだろうか。当たり前のように絡まる指に苦笑して、次へ踏み込む。
「再び呪詛が勢いを見せ始めたのは、先代の力が弱まり始めた頃?」
「ああ。五年前に、先代から下山の準備をしておけと連絡があった。しばらくして住職を解任され床に伏し、四年前に死んだ。そのあと、清良姉さんが守翠美術館から玉縒の笛を盗んで退職。離婚して地元に戻って来た」
「で、三年前の四月に朝晴、二年前の四月に逆藤が教育委員会に異動した……のは偶然?」
今頃になって気になった流れに、隣を見る。千聡は目を閉じたまま、不自然な間を置いた。まさか。
「『正しく』異動したのは、逆藤だけだ」
やがて告げられた内幕に、目を見開く。じゃあ朝晴の、あの異動は「作られたもの」だったのか。
「教育委員会に異動する予定だったのは、剣上じゃない。『かひ』の術が、本来異動するはずだった教員を剣上にすり替えたんだ。逆藤のすり替えは人物に掛かってたが、剣上のは書面や情報に掛かってた」
愕然としたが、腑には落ちるものだった。
朝晴は仕事はできたものの、職員室での評価は決して高くなかった。朝晴のような教員が教育委員会へ異動するのは異例だったのは間違いない。だから私も、力のある保護者の口利きだろうと当たりをつけたのだ。でも、そうではなかった。
出世街道に乗るべきは、ほかの教員だったのだろう。
「じゃあ、今は」
「術はもう解いた。異動のミスも、明らかになってるだろう」
冷ややかな声で報告された処理に、千聡を見据える。もちろんその処理は間違っていない。あるべき人をあるべき場所へ戻す、正しい処理だ。でも、少しの迷いもなかっただろう。千聡が許すはずはない。
「剣上に術を掛けて教育委員会へ異動させたあと、清良姉さんは百合原と接触。翌年逆藤の異動に合わせて、今度は純香姉さんに術を掛けた。純香姉さんは逆藤になりすます傍ら『かひ』に協力し、逆藤の嫉みを培地にして呪詛に必要な薬を作った。そして『かひ』は百合原の暁への恨みが最も高まったところを狙って百合原を殺害。恨みの胎で育った嬰児を利用して先代の術を滑り抜ける呪詛を仕組み、暁に送りつけた」
「どこまで、知ってたの?」
当たり前のように交じりこんだ名に、抑えた声で尋ねる。
「知ってたわけじゃない、術や痕跡に基づいた推察だ。でも、当たってたみたいだな」
千聡は薄く目を開け私を横目で確かめたあと、また閉じた。しまった、確信はしてなかったのか。
「私は、呪詛から解放されたいとは思ってるけど復讐は」
「知ってる」
濁す言葉を千聡は短く遮り、繋いだ手に力を込める。
「もしクラスでいじめがあったら、暁はいじめた奴じゃなく、いじめられた子を転校させるのか? その子がそこで得られるはずだった全てのものが奪われると分かってて、それでもその方が、逃げる方が幸せになれると本人に言えるか?」
今のところはまだ、その経験はない。でも「もし」クラスで起きたら、どんなことをしても被害者を守ると決めている。私は絶対に、私を見捨てた連中と同じ教師にはならない。
答えは分かっている。それでも、だ。
「罪を犯せばどうなるか、今の璃子を見てたら分かるよ。法が裁かなくても千聡くんが手を汚さなくても、あの人は天に裁かれてふさわしい地獄に落ちていく。先代も、それが分かってたから罰しなかったんじゃないの?」
「その結果がこれだ。俺は先代とは違う」
一層頑なになった声に、溜め息をつく。聞こえないふりすらしないのは、絶対に聞き入れない時だ。でも、千聡の憤りが分からないわけではない。
――悔しいですが、この事件はもう法では裁けません。ただ副住職に託して裁いてもらうのが正義だとも言い難い。
思い出される中室の言葉に、息苦しい胸を押さえる。法で裁けず先代も千聡も正義ではないのなら、どうすればいいのだ。
ふと感じた揺れに、パーカーのポケットを探る。取り出すと、祖父からの着信だった。
「おじいちゃんから電話。ちょっと話してくるね」
救われて腰を上げ、デッキへ向かいながら通話ボタンを押す。響く列車の音に断りを入れつつ挨拶を交わし、用件を尋ねる。祖父は少し間を置いて、実は、と切り出した。
「剣上さんのご実家から連絡があった。朝晴さんが金曜の夜に、自死されたそうだ」
予想できるはずもない報告に、窓外の景色がぐにゃりと揺れる。目を閉じて揺れる壁に凭れ、深呼吸をする。金曜の夜。
――術はもう解いた。異動のミスも、明らかになってるだろう。
明らかになったのは、いつだったのか。私に縋りついてまで、守りたかったものだ。
「葬儀は身内のみで済ますからと、案内はされなかった。ただ暁宛ての手紙があって、送ったからそれだけは読んでやって欲しいと仰ってた」
最期の手紙か。全ての接触を禁じられたから、命を懸けたのだろうか。
「分かった、ありがとう。ごめんね、中継ぎさせて」
「なんともない、大丈夫だ」
目を開き、薄汚れたスニーカーを眺める。ブルーグレーのシンプルな一足は、そういえば、朝晴からの誕生日プレゼントだった。靴は履いて逃げられるから不吉らしいけどね、と笑った裏ではもう、私を裏切っていた。
「最近、副住職さんが暁を迎える支度を始められたって噂が耳に入ってくるようになった。おそらくは清良さんが亡くなったことで生まれた憶測だが、うちに特別目を掛けてくださってるのは事実だ。全部が根も葉もない噂じゃないだろう」
冷静な祖父の見立てに、うん、と小さく返す。
「早く離れた方がいい。このままだと」
続け掛けた言葉は、ふつりと切れた。確かめた画面は圏外表示で、列車はトンネルの暗がりに呑まれていく。トンネルのせいなのに、違うものを疑っている。こんな状況が、良いはずがない。
傍にいるのは無理だと、一度だけだが言葉にして伝えている。でも距離が近くなり始めたのは、そのあとからだ。
溜め息をつき、明るさの中で再び消えた圏外表示を確かめる。祖父に『圏外で切れたから、このまま終わるね』とメールを打って、席に戻った。
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