第28話
夜八時を過ぎて携帯を鳴らしたのは櫛田ではなく、中室だった。
シャワーの音が響くバスルームを一瞥して、通話ボタンを押しつつ窓際へ向かう。
「はい、日羽です」
「中室です。夜分に申し訳ありません」
櫛田とは捜査打ち切りの電話が最後だったが、中室とは警察署で会ったきりだ。あれから数日、遅れた挨拶というには少し遅い気がする。
「大丈夫です。先日、櫛田さんから捜査打ち切りのご連絡をいただきましたが、その件でしょうか」
「いえ。私も素直にご挨拶できれば良かったんですが、執念深い性分でして」
話を向けた私に答えて、中室は少し笑う。自嘲混じりの笑みを浮かべているであろう姿は想像できる。一つ、長い息が聞こえた。
「捜査は既に打ち切られていますし、これは正規の捜査で調べたものばかりではありません。どのみち、まっとうな捜査を続けたとこでどうにもできませんし」
切り替えるように息をついたところで、自嘲と皮肉の混じる物言いは変わらない。引きずられそうで、壁に立て掛けていた錫杖を取りに行く。暗い方に引きずられたら、ここではすぐに呑まれてしまう。
「有前清良の家から出た指紋はいくつかありました。本人のものと百合原璃子のもの、最後に一つ、不明なものがありました。こちらが、逆藤の部屋と職場に残っていたものと一致したんです。ここまでは一応、正規の捜査です。ここからは、衣笠の手帳を元に私が単独で動いて調べたことですが」
衣笠の手帳は、やはり清良の手元にあったのか。少し置かれた間に、唾を飲む。バスルームからの水音は、まだ続いていた。
「
抑えた声の報告に、一瞬見開いた目を閉じる。携帯を握り直し、震えそうになる息を宥めて錫杖を少し振る。澄んだ音に気持ちを向けた。大丈夫、予想していたことだ。
――暁ちゃんを千聡に嫁がせようなんて、馬鹿なこと考えないでくださいね。
清良だけなんて、ありえなかったのだ。
「町川は百合原の事件後すぐ、単身赴任中の夫と一緒に暮らすために東京へ引っ越しています。娘が一人いますが、六年前から海外の全寮制の学校へ通っているため日本にいません。長らく一人暮らしを続けていましたから、逆藤になりすまして生活するのは難しくなかったはずです。町川と有前の姉妹はよく似ていましたし、町川の部屋からも有前の指紋が出ました。私は、この二人の間でもなりすましが行われていたと考えています」
逆藤と璃子、私を疎む二人を利用して、ゲームのように楽しんでいたのだろう。
「あと、町川純香の夫は財務省の官僚です。捜査を中止させたのは、おそらく夫でしょう」
続いた報告に、溜め息をつく。百合原家から住職に相談が行き純香を頼ったか、清良から純香へ流れたか。まあもう、どちらでもいい。
「こんなことまで調べて、中室さんは大丈夫なんですか」
「どうでしょうね。正直、分かりません。でも刑事としてすべきことをしたとは思ってます。悔しいですが、この事件はもう法では裁けません。ただ副住職に託して裁いてもらうのが正義だとも言い難い。それでも、あなたには知らせておくべきだと思いました。あとは、あなたに任せます」
託された判断は、決して軽いものではない。でも、私がすべき決断だ。
中室は少し間を置いて、再び口を開く。
「どんな環境で育とうと腐る奴は腐るし腐らない奴は腐らないって真理を今回、目の当たりにしました。今回の救いはそれだけ……ともう一つ、櫛田が一皮剥けたことですかね。お世話になりました」
「いえ、私こそ何度となく守っていただいて、本当にありがとうございました。櫛田くんは自力で悟っただけですから、私は何も。かわいい後輩です」
私は、自分が旧姓で呼ばれ続ける違和感すら抱かなかったのだ。櫛田が嘘をついていたなんて、気づけるわけがない。朝晴を許せなくて櫛田を許せたのは、もちろん仕打ちの差もあるが、誠実さを見せてくれたからだろう。その程度で許せるほど、単純な性格をしているのに。
「あいつは甘ったれなんで勧められませんが、世の中にはまともな男もたくさんいます。次は、いいのを捕まえてください」
「そうですね。一人に飽きたら、と言っておきます」
先達の言葉に苦笑しつつ、少しだけ制限を緩めた答えを返す。一生飽きない可能性は、残しておきたい。
いつの間にか聞こえなくなっていたシャワーの音に、卒のない大人の挨拶をして通話を終える。携帯を下ろす頃、バスルームのドアも開いた。
「電話か」
「うん、中室さん。挨拶だった」
事実は伏せて答え、錫杖を手にソファへ腰を下ろす。千聡は冷蔵庫を開くと中から缶ビールを取り出し、当たり前のようにプルタブを起こした。
「えっ、飲むの?」
「今日は、ちょっとな」
苦笑で缶を傾け、呷るように飲む。白衣の僧侶が喉を鳴らしてビールを飲む姿は、見慣れないものだった。
千聡は缶を起こし、荒い息を吐く。軽く缶を振りつつこちらへ来ると、デスクの椅子を引っ張り出して座った。
「さすがに、部屋に帰れとは言わないよな」
「『出たら呼ぶ』だと、間に合いそうにないからね」
幸いだったのは、デラックスシングルを選んでいたことだろう。デラックスなのは、ベッドサイズがダブルだかららしい。自分を褒めてやりたい。まあ今は、そんなことはいいのだ。
「呪詛の始まりも分かったことだし、これまでの流れを一旦整理しておきたいの」
ノートを開いた私に、千聡は頷いて缶を傾ける。
「まずは、呪詛の始まりね。何らかの理由で堀河天皇の御代に『たかつののかひ』が玉縒家に呪詛を掛けて、当主だった玉縒守禦がこれを防いだ。ただ若かったため全ての呪いを返すことができず、子孫に策を残して亡くなった」
守禦の没年は一一〇八年、堀河天皇崩御の翌年だ。それから、約九百年。
「先代が解明した呪詛の発現はおよそ三十回。現在までに呪詛は解けず、どこかの代で解明できたのは『本家嫡男に掛かる呪い』だけ。その結果、対抗策として『嫡男を三歳まで娘として育てること』『娘としても通じる名前をつけること』の二点が生まれたと。なんか、もうちょっと解明されてても良さそうなんだけど」
「そこは、人間の業だ。同じ玉縒でも本家以外、本家の嫡男以外には『対岸の火事』だろ。自分達には関係ないし、下手につついてこちらに飛び火されたら困る。救う手掛かりを求めた先代を門前払いしたのも、今回非協力的なのも同じ理由だ。解明しようとして、身内の妨害に遭ったんだろう」
千聡は答えつつ缶を傾け、少し間を置いてまた傾けた。
「なんでそうやって、毎回最終回の前みたいな話の切り方するの?」
「これ以上話すと暗いこと考えるだろ。考えたら出るぞ」
「私も頑張って考えないようにするから、あとは僧侶の力でなんとか」
ダメ元で頼むと、千聡は笑って腰を上げる。冷蔵庫からボトルを引き抜き、形の違うグラス二つと共に戻って来た。特徴のある栓の形は、シャンパンか。
「酒の力の方が頼りになる」
「でも私、お酒飲まない方がいいと思う。お酒のせいで浮かれて口が滑って告白した結果、結婚前から浮気されて離婚したから」
「後半は酒のせいじゃないだろ。そこまで業を負わせてやるなよ」
千聡は笑いながら、シャンパンの封を開ける。慣れた手つきで栓を覆い、短い発泡音を響かせた。
「慣れてるね」
「大学時代、酒ばっか飲んでたからな。飲んで打ってけんかする、荒んだ生活だった」
驚きはしたものの、理由を問える立場にはない。
注がれた細長いグラスを黙って受け取り、久しぶりの味を確かめる。シャンパンなんて、結婚式以来だ。泡は爽やかに弾けて消えたが、後口は少し苦かった。
「暁は、どんな大学時代だった」
「教育学部じゃなかったから普通の単位に加えて教職の単位も必要で、忙しかったよ。教員免許、地歴と公民両方取ったしね。バイトは家庭教師がメインで、長期休みは塾の夏期講習のバイトしてた。華のない生活だったよ、部活の類には入ってなかったし」
大学四年間の記憶は、研究室と図書館とバイト先で埋め尽くされている。脇目も振らないほど何かに集中しなければ、潰れてしまいそうだった。
グラスを半分ほど開けて、一息つく。違う話題を選んだところで、どちらにしろ薄氷を踏むようなやりとりしか。
「彼氏はいなかったのか」
「もう酔った?」
容赦なく踏み抜く千聡に苦笑し、シャンパンを飲み干す。向けられた瓶に応えてグラスを向けたあと、瓶を受け取って千聡にも注ぐ。
「いなかったよ、欲しいとも思わなかったし。教師になれば手に職つくから、一人で粛々と暮らしながら親孝行して生きていこうと思ってた」
「たくましいな」
千聡は二杯目を味わいつつ笑う。そういえば、何度か食事は一緒にしたが、こうして飲むのは初めてだ。シャンパンを飲む僧侶を見るのも、初めてかもしれない。
「私が大学の頃には、おじいちゃん達はもう八十を過ぎてたからね。何も恩返しできないうちに見送っちゃうのが怖かったの。助けがなくても生きていけるほど自立して、早く安心させたかった」
私の養親は祖父母である以上、一般的な親よりどうしても先に逝ってしまう。本当は幸せな結婚生活の先に曾孫を抱かせてあげたかったが、それは叶わなかった。
「まあ、あの夫婦は『明日には迎えが来るかも』って言い出して二十年経ってるけどな。この前顔出したら、ばあさんが嬉しそうに『おじいさんは同級生がもう三人しかいないけど、私はまだ五人残ってるのよ』って教えてくれた。九十過ぎるとシュールが極まるな」
明るい声で笑う千聡に、昔の面影を見る。今は涼し気な、澄ました顔が定着してしまったが、昔は私より遥かに感情表現の豊かな子供だった。
懐かしさを味わいながら、その頃には飲めなかったものを喉へ送る。熱はさらりと流れて消え、過去のものになった。
それからしばらく高校と大学時代の、私が傷つかなかった時代の話をしてシャンパンを空けた。
「私、これ以上飲んだら眠くなって話ができなくなるよ。あんまり、強くないの」
「なら、寝ながら話すか」
私の申告に逆行する提案に、あくびを噛み殺しつつ既に眠くなりつつある目を向ける。私より量を飲んでいるはずなのに、千聡はまるで変わったようにない。
「眠くなるって言ってるのに」
「それくらいがちょうどいい話だ。うとうとしながら聞いて、寝たら忘れるくらいが」
千聡の声が、少し揺らいで聞こえる。私の方はもう、すっかり回ってしまったらしい。頷いて目をこすり、腰を上げた。
「さっきは、解明しようとして身内の妨害に遭ったんだろうってとこまでだったな」
私が寝転がると、千聡も横になる。兄の手つきで私の肩口まで掛け布団を掛けたあと、寝かしつけるように叩いた。家とは違うふかふかの枕に頭を沈ませながら、寝返りを打つ。
千聡は頬杖をついた姿勢で、眠たげな私を眺めた。
「今まで本家が残って、律儀に嫡男を持ち続けていた理由が分かるか? どうして血が絶えなかったか」
「みんなが頑張って存続させたんじゃないの?」
「それなら今回だって、助けの手を伸ばしてるだろ」
ああ、と納得して頷く。確かに身内の妨害で真実に辿り着けないのに、こんな理由は楽観的すぎるか。
「本家の嫡男が途絶えたら呪詛も終わるのかほかの奴が呪われ始めるのかは、なってみるまで分からない。でも『本家の嫡男が呪われ続ける限り』ほかの奴が呪われないのは分かってる。要は自分達の安全を保証するために、本家の嫡男って『人身御供』が必要だったんだ。『われのみとおもひそひとのみにくしを』とは、蓋し真実だな。守禦も分かってたんだろう、家系図と和歌集には強力な守護の術が掛けてあった。多分、笛も処分できず残ってるはずだ」
そういうことか。でもそれなら、なぜ父は結婚したのだろう。結婚して、私をどうして腕に抱いたのか。分かっていれば……そうか、「知らされていなかった」のか。
「この呪詛には、あの和歌にふさわしい皮肉な仕組みがあるみたいでな。発現するほどに力は強まる一方で、発現に必要な恨みや憎しみの量も増えていく。最初は一人分の恨みで良かったものが、二人や三人では足りなくなっていくんだ。でも真っ当に生きてる人を、外の奴が何十人もまとまって恨むわけがない。いじめは蔑みや愉悦だから、感情が違う」
翳っていく私を守るように、千聡は私を抱き締める。頭を撫でる手は温かくて、心地いい。
「暁のお父さんは多分、暁が産まれるまで知らされてなかったんだろう。どこかの時点で二人目を拒否して、一族の反感を買った。それに実行犯である加害者の恨みの念が乗って、発現したんだ。捜査打ち切りのせいで櫛田は調べきれなかったけど、事件に前後して逆藤と似たような死に方をした奴がいたはずだ。薬作りを手伝ったのは、親族だろう」
今私に寄せられている恨みは、「男なら良かったのに」だろうか。娘として生まれただけで、祝われなかったのか。そういえば、祖父母以外の親族とは一度も会ったことがなかった。
「両親の願いは俺が引き継ぐ。こんなことでは、絶対に死なせない。だからあとは俺に任せて、安心して寝ろ」
千聡は穏やかな声で言って、私の背を軽く叩く。あ、と気づいた時にはもう遅く、そのまま眠りに落ちた。
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