第27話

 少し遅い昼食ににしんそばを食べてホテルに戻ると、三時を過ぎていた。

 旅行ではないとはいえビジネスホテルなのは味気なくて、そこそこ良いホテルのデラックスシングルを選んだ。

「なんでシングル二つなんだ。せめてツインだろ」

 一人掛けのソファに寄贈品を詰めたダンボールを下ろしつつ、千聡は不満そうに言った。

「同じ部屋で寝る理由がないの、分かってる?」

 週の始めに二日泊めたのは、致し方ない事情があったからだ。今はない。

「寧ろ同じ部屋で寝る理由しかないぞ」

 予想外の切り返しにダンボールを開く手を止め、千聡を見上げた。

「暁は呪われてる身だし呪詛の発生地だから力が強まるしそもそもここは京都だぞ。これほど魑魅魍魎に親和性のある土地で、どうして無事に夜を越せると思ったんだ」

「そういうのって、前もって言っておくもんじゃないの?」

 初めて知る可能性に、血の気が引く。璃子や呪詛の憑き物だってまだ見慣れていないのに、魑魅魍魎なんて耐えられるわけがない。それを聞いていたら、私だってツインにはしていた。

「一回寝たから次も許されるものだと思ってた」

「その言い方は語弊があるからやめて。生徒に聞かれたら死んじゃう」

 いろいろな意味で、教師生命が断たれてしまう。後ろ指を差されながら退職するわけにはいかない。とりあえず、と仕切り直して、ダンボールの中から巻物を取り出す。

「『出たら呼ぶ』でいいんじゃない?」

「出るぞ」

「そっ、れを出ないようにするのが僧侶の仕事でしょ!」

「俺は出たやつを御仏の元へ送る僧侶なんだよ」

 僧侶にも、そんな種類があるのか。確かにそんなことを言っていた気はするが。一瞬蘇った手触りの悪い記憶に、一息つく。

「もうそれは、夜に考えることにしよう。今はこっち」

 テーブルに巻物を置き、ダンボールをソファから下ろして座る。

「受け取った時には手掛かりにならないと思って落ち込んだけど、意味のないものは残さないんじゃないかと思い直したの。あの呪いを込めた和歌にも、裏の意味があったでしょ」

 ああ、と答えて千聡もデスクの椅子を引き寄せて腰を下ろした。

「家系図の方で呪詛を掛けられた当主を探して、和歌集でその人の和歌を探すの」

 納得して頷いた千聡の前に家系図の巻物を開く。書き足す時に合わせて何度か書き直されているだけあって、読みやすい史料だった。ただ、父の名前は書き足されていない。

「一一二〇年前後とするなら、この辺かな。平安時代後期の院政の頃。覚えてる?」

 元号を辿りつつ視線を向けた私に、千聡は微妙な表情で応える。

「理系で選択地理だったからな。中学の記憶で『院政』の用語だけは覚えてるけど」

「この頃に院政を行ったのは白河法皇、元白河天皇ね。息子である堀河天皇が崩御したあと、即位した幼い鳥羽天皇や崇徳天皇に代わり政治を行ったの。ざっくりした説明だけど」

「じゃあ、白河法皇に仕えた当主か」

 確かめる問いに、家系図の連なる名前と元号に視線を落とす。単純に九百年前とするならそうなるが、幅を持たせるならそうとは言い切れない。

「年号だけで見るとそうかなとは思うけど、この辺、譲位が早いんだよね。白河天皇は十五年くらいで堀河天皇に譲位してるし、堀河天皇は在位二十年くらいで亡くなったはず。鳥羽天皇も十五年くらいで譲位してた。崇徳天皇は二十年くらい、だけど」

「崇徳院本人は呪ってない。あれは、ほかの奴らが結びつけて騒いだ念が作り上げた祟りだ。呪いが身近だった当時は、恐れも凄まじいものだったろうしな」

 視線で確かめた千聡の否定に納得する。

 崇徳上皇は保元の乱に敗れたあと、讃岐へ配流された。反省の証として経の写本を朝廷へ収めようとしたが後白河院に拒絶され、怒りの中で呪いながら死んだという説がある。その後起き始めた世の混乱に、朝廷は崇徳院の祟りとして彼を恐れて奉った。今では日本三大怨霊の一人と言われているものの、史料を読み解いた限りでは疑問の残る祟りではある。呪いには、本人の与り知らぬものもあるのだろう。

 まあそれはさておき、問題は本当に呪われたこちらだ。なぜ清良は、笛を奪っていったのか。

「さっき電話をかけに行ったのは、笛を探してって言いに?」

「ああ。盗んだのが確定したから、もう一度遺品の中を探すように連絡した」

 相変わらずの歯に衣を着せない物言いに、溜め息をつく。引きずられそうな胸を整えて、一つ咳をした。

「もしそれが何かしらの目的があっての下賜品なら、堀河天皇からじゃないかな。雅楽に秀でた方で、特に笛の名手だったそうだから。ある程度分かりやすい記号がないと、子孫が読み解けなくて困るでしょ」

 ただ、これは先代が呪詛の発生時期を読み取ってくれたからできた推理だ。九百年の間に三十回の発現を許してしまったのは、これまではここにすら辿り着けなかったからではないだろうか。辿り着いても、解消できる術師がいなかったか。

「先代がいなかったら、今回も読み解けなかったな。俺じゃ無理だ」

「そうなの?」

「仕組みはある程度まで『見える』けど、『解く』のは苦手なんだ。複雑なものは、数千本の絹糸が一本残らず絡まってるようなもんだからな。先代は『解く』のにも長けてたから分析や分解で弱めていけたけど、俺は出てきたのに対処するので精一杯だ」

 先代は、そんなにすごい人だったのか。私が出会えたのは、境遇を哀れんだ天の采配だったのかもしれない。それなら尚更、ここで終わらせなければ。私が死ねば終わる呪いであっても、死ぬわけにはいかない。父は、そんな終わりのために私を守ったわけではない。

「それを根拠にして探すと、堀河天皇の在位期間と被ってるこの辺だと思う。玉縒たまよりの守禦しゅぎょかな。『守禦』は防衛の意味を持つ熟語だから、本名かどうかは分からないけど。二十四歳で亡くなってる」

 そのつもりで見るせいか、この名前も仕込んであるように思えてしまう。

「で、守禦の和歌は……と」

 二本目の巻物をそっと広げる。こちらも何度か写し直されているようだが、家系図よりは少ない。こちらには、祖父の和歌もなかった。

 和歌は当主につき二首から三首。守禦は二首で、二首目には詞書ことばがきがついていた。

 バッグからノートを引っ張り出し、早速変体仮名の解読に取り掛かる。

「多分合ってる、最初に呪詛を受けたのはこの人だよ」

 平仮名に直した和歌を、改めて読み返す。

「『たゆらなるよにひかりあれとこしへによりてよりゐよたまはうつくし』。これ、あの呪いの和歌への返歌だ」

 漢字を交えると『たゆらなる世に光あれ常しへに依りて寄り居よ魂はうつくし』だろうが、おそらくこの「たま」も「玉」だ。二度ある「より」は「縒」だろう。

「移り変わる世に永遠に光あれ、光を頼り寄り添って生きろ……『玉は愛し』なら愛しい子孫よ、ってとこかな。『玉縒』も入れ込んであるから、光ある限り玉縒は不滅、的な意味なのかも」

「『滅ぼす』って言われたから、『滅ぼされぬ』って返したわけか」

「一読してはそうだけど、そんな決意表明だけで子孫に丸投げするかな」

 呪詛を掛けた側に察されて潰されないように、暗号を仕込んである気はする。よりてよりゐよ、か。

「一首目は気持ちの表明で、二首目が鍵なんじゃないのか」

「そうかも。ちょっと待ってね」

 一首目の疑問を引きずりつつ、二首目の解読に取り掛かる……が。

「確かにそうかも。詞書って大抵、和歌では説明しきれないことを補う形で書くものだけど、なんか噛み合わない」

 詞書は『みよここのとういざよひにならずつごもりにみたぬよもいつ』、漢字を交えれば『見よここの塔十六夜にならず晦に満たぬ世も凍つ』といったところか。「この塔は十六夜にはならず、晦日を迎えられない世も凍る」とは、なんとも不穏な意味だ。

「和歌はどういう意味なんだ」

 千聡は漢字交じりの和歌を確かめつつ投げる。

 『いとたかしみよにつのぐむあしのねはあはれをしらむかひはなぐなり』。漢字を交えれば『いと高し御代に角ぐむ葦の根はあはれを知らむ峡は凪ぐなり』だろう、今のところは。

「『高き帝の世に芽吹く葦の根は情けを知るだろう、谷間は凪ぐようだ』ってとこだけど、『葦』は善悪の『悪し』だね。『帝により悪は制され世は穏やかに続くだろう』って意味じゃないかな」

「なんでこんな面倒くさいんだ。普通に詠めよ」

 うんざりしたような表情で零す千聡に苦笑する。

「匂わせるのが文化だからね。『いろはにほへと』もそうでしょ。あれも七文字ずつで区切った最後の文字を繋げて読んだら『とかなくてしす』、咎無くて死すって暗号文だよ」

 古代から、直接は言えない恨みを文字に託す文化があった。歌にもさまざまな感情や暗号が秘められている。

「この詞書、『この塔は十六夜が見えないし、晦を迎えられない世も凍る』って感じ。何かの暗号だとは思うんだけど……和歌の谷間と関係あるのかな、どこの塔だろう」

 悩む私に、詞書を見つめていた千聡が気づいたように、いや、と言った。

「これは数字だ。『みよ』は『三』『四』、『ここの』は九つの『九』、『とう』は『十』。『いざよひにならず』は多分、『十五』だろ」

 ああ、そうか。そういうことか。意味を求めようとするのは、間違いだった。改めて、後半を見る。

「『つごもりみたぬ』を『三十に満たない』と解釈した上で『よもいつ』を『四』と『五』とすると、満たないんだから『二十五』と『二十六』。二首目でこの数に当たる平仮名を書き出したらいいのかも」

 手掛かりにノートに向かい、対応する文字に丸を付けていく。

「『たかつののかひ』だって。名前っぽいね」

「これが諱なら、かなり助かるな。一旦結界を解けば確かめられるけど、さすがに発生地で解くのはまずい。笛が手元にないし」

「千聡くん、笛吹ける?」

「リコーダーなら」

「私もそうなの。お父さんは上手だったんだけど」

 多分あれは、単なる趣味ではなかったのだろう。嫡男が三歳まで娘として育てられる以外の、しきたりのようなものだったはず。でも私は嫡子であっても娘だったから、母と一緒にひらひらと踊っているだけだった。

「笛が見つかったら、解く前に練習するか」

「うん」

 とりあえず吹けばいいのかそれ以上の何かが必要なのか分からないが、吹けないことには始まらない。

 頷いた私の頭を、重い手が撫でる。まあ一ヶ月しか違わないとはいえ、「兄」には違いない。

「ぼさぼさでしょ。璃子が出てくるかもと思ったら心配で、美容室に行けないの」

 できるだけ学校と自宅の往復で済むようにして買い物も最小限に、ネットで購入できるものは全部そうしている。ただ、美容室はそうはいかない。

「伸ばせばいいだろ。長い髪も似合ってた」

「私は、好きになれなくて」

 苦笑で手から逃れ、再び家系図に視線を落とす。

 祖父が玉縒の品々を寄贈したのは、父を最後の嫡男として玉縒本家の歴史を終えるつもりだったからだろう。理不尽な呪いにこれ以上子孫を危険に晒すより、家の断絶を選んだのだ。祖父も父も、娘の私に全てが降りかかるとは思っていなかった。知っていれば、幼くても少しくらいは伝えていたはずだ。知っていたなら、少しくらい。

――逃げろ! 管理人のおじさんのとこに行くんだ!

 逃げずに立ち向かえていれば、少しくらい。

 暁、と聞こえた声に顔を上げると、千聡が私の傍で何かを掴む。

「見るな」

 視界に入らないよう隠されたが、まるで見えなかったわけではない。あの小さな手に思い出すのは、私の口を塞いだ璃子の。

「慈悲を掛けるな」

 数珠を取り出し、千聡は腰を上げる。そんなこと、と返すより早く体が重くなって、視線を落とす。椅子に腰掛けた私の両脚にしがみつき這い上がろうと蠢いている無数のものは、いつか璃子が抱いていたものよりももっと小さい、胎児達だった。まだ目も開かないほどに小さく、ぬめっていて。

「目を瞑ってろ!」

 聞こえた指示に我に返り、慌てて目を瞑る。すぐに響き始めた野太い読経の声に、短い悲鳴と共に水風船が弾けていくような音が断続的に交じる。何が、なんて想像するまでもない。額に汗が滲み、胸は早鐘を打つ。重みを感じる脚は少しずつ温められているのに、膝は小刻みに震えていた。目を閉じたところでさっきの光景が思い出されるが、開けても地獄絵図だ。

「暁!」

 千聡の悲痛な声がした時、何かが後ろから両肩を掴む。待っていたぞ、と耳元で嗄れた声が笑う。聞き覚えのある声は、これまでよりもずっと鮮明に聞こえた。ソファには背凭れがあるはずなのに、引かれる体はそこを越えていく。ぬるま湯に落ちていくような心地よい感覚に浸され身を預けかけた時、誰かの手に勢いよく引き戻される。はっとして目を開くと、法衣の胸があった。ソファに座っていたはずなのに、千聡の膝の上に移動している。さっき、何があったのか。

 千聡は私を片腕に抱いたまま、太い声で読経を響かせる。時折肌に痺れが走るのは、読経のせいか呪詛のせいか。何かが、猫とも胎児とも聞こえる唸り声を上げた。やがてぼこぼこと沸騰するかのような音がそれを凌駕した時、さっきよりも大きな破裂音がする。突風が血と何かの生臭さを運んだあと読経の声も消え、辺りは静まり返った。

 千聡が大きな溜め息をつくと、胸も大きく動く。離れようと起こした体を防がれて、仕方なくまた、胸に凭れた。

「『たかつののかひ』で、正解だったみたいだな」

「掠れた、老人みたいな声で『待ってた』って言った。これまでも何回か、聞いたことのある声だったよ」

「さすが呪詛の発生地は、大盤振る舞いだな」

 再びの溜め息が途切れ、回された腕がびくりと揺れる。

「大丈夫?」

 慌てて体を起こし見上げた千聡の顔が、黒い靄に包まれていた。いつか、インターフォン越しで見た時と同じだ。

「暁?」

 瞬きのあと見えた顔は、いつもの千聡に戻っていた。でも、触れた頬は汗で湿っている。

「どこか、痛いんでしょ。見せて」

「大丈夫だ」

 でも、と諦めず返した私の視線から逃れるように、千聡は私を抱き締める。

「こうしてれば治る」

 また胸に凭れたが、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。多分「これ」は、聞かない方がいいのだろう。知れば苦しくなるだけなら、たとえ卑怯であっても聞かない方がいい……のか。

「暗いことを考えるな、また出てくるぞ」

 肩越しの声に頷き、法衣の胸にくぐもった息を漏らす。手が、労るように私の頭を撫でた。

「俺は、長い方が良かった」

 ぼそりと聞こえた言葉に苦笑する。だから伸ばせと言うのか。今から伸ばしたところで、あの頃の長さになる前には。

 また暗い方へ傾きそうになった胸を整え、長い息を吐いた。

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