第26話

 美術館に交渉した内容は、櫛田の後押しもあって無事に了承された。ただそれは、注釈と詫び付きの内容だった。

 京都駅から守翠美術館までは、バスで向かう。

「『ほかに紛失したものはありません』って、今メール来た」

 ほかの場所では聞けそうもないバス停の名を耳に流しつつ、大きく右に曲がる車体に体を揺らす。到着十分前に送るくらいなら、到着してから話せばいいのではないだろうか。もうすぐ着く旨を伝えて返信し、窓外を眺める横顔を見た。

 土地柄か、袈裟姿の僧侶がバスに乗っていても誰も全く動じない。数人、気づいて手を合わせる御老体には千聡も応えて合掌していた。

「大学、この辺だった?」

「いや、もっと南だ。でも懐かしいもんはたくさんあるな。よく通ったラーメン屋は潰れてたけど」

 離れていた頃の話を聞くのは初めてだし、聞かれたこともない。違う場所でも人生が続いていたのは当たり前なのに、新鮮だった。

「部活は、何か入ってたの?」

「合気道部のままだ。気の鍛錬は、仏道の修行にも役に立つからな」

 町には合気道の道場はなかったから、子供の頃は先代が教えていた。本堂で何度となく、吹っ飛ばされる姿を見ていた……が。

「ねえ、もしかして合気道を使えば、殴らなくてもいい場面があったんじゃないの」

「あとで『にしんそば』食うか。旨かった店が残ってる」

 涼しい顔で受け流す千聡に項垂れる。そんなことだろうと思った。

 車内に響いた雅やかなバス停の名に、千聡は傍らのブザーを押す。着いたぞ、とまるで何事もなかったかのように錫杖を握った。


 紛失したのは龍笛のみで、それ以外のものは史料も蒔絵の文庫も残されていた。物はともかく、一番必要だった史料が残っていたのは幸いだ。これを読めば、分かることもあるだろう。

「本当に申し訳ありません。本家から寄贈いただいた貴重なものを」

「いえ。一番必要だったものはありましたから」

 安堵して、流し読みした家系図を巻き直す。

「笛の紛失は、何年前ですか」

 千聡は寄贈品を一瞥して、恐縮する館長に尋ねる。

 わざわざ館長が出て来た理由は一つ、彼が分家の当主だからだ。たとえ他家の養子になっていようと礼は尽くすべきと判断されたのだろう。

「四年前です。管理の責任者は、紛失の責任を取って退職いたしました」

 懲罰の重さに驚いたが、確かに平安時代から受け継がれてきた貴重な品々だ。簡単に値がつけられるようなものではない。いくら積まれても、金では弁償できないものだ。

「その責任者、深見ふかみ清良ではありませんでしたか」

 思いもよらない名に、隣を見上げる。それは、離婚前の名字か。

「はい、そうです、深見でしたが……なぜ」

 困惑したように答える館長に私は驚き、千聡は溜め息をつく。

「その笛を『盗んだ』のは、私の姉です。先日死にましたが」

 千聡は眉一つ動かさず、清良の所業と死を報告する。まるで庇う気のない「弟」の言葉に、館長は絶句した。

「外で一本、電話かけてくる。話を済ませといてくれ」

 踵を返して外へ向かう背を見送り、呆然とする館長と視線を合わせて苦笑しあう。置いて行かれた地獄のような状況に、ひとまず玉縒の歴史などを尋ねてみることにした。


 玉縒家はかつて、京都にあった神職の家だった。しかし江戸時代に幕府の命により、本家は江戸住みを命じられ家を分けられた。古くより玉体安穏を裏で支え続けた一族だったため、謀叛を警戒されたらしい。いわゆる、呪詛の類だ。

 ただ館長も、九百年前の呪詛に関しては全く知っていなかった。知っているのは、本家の嫡男は長生きしないため三歳までは娘として育てられること、それに伴い男女で共有できる名前をつけられること、の二つだけだった。

――こちらに預けられ、分家の子のように育てられたこともあったようです。

 その理由が史料にあればと願っていたが、もう一つの史料は当主の和歌を集めた和歌集だった。家系図は役に立ちそうだが、和歌集では教養しかつかない。手掛かりには遠そうな史料に意気消沈した私に、館長は何を思ったか清良についても話し出した。

 清良は近くの大学で院まで美術を学び、教授の推薦を受けて就職したらしい。成績は非常に優秀で、豊富な知識と卓越した審美眼を持つ学芸員として重宝されていた。教授推薦を受けられるくらいなのだから、相当なものだったのだろう。

――正に才色兼備で……だから責任を取って退職する話が出た時、引き止める人が多かったんですよ。

 まさかそんなことをするとは、と続けそうだった館長は、戻って来た千聡の姿を見て口を噤んだ。

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