第25話

 昨日は千聡の要望だったが、今日は私の要望だ。朝晴の浮気を知った日も一体目の璃子に会った時も一人で眠れたのに、今日はどうしても無理だった。

「予想よりも早かったな」

 黙って聞き遂げた櫛田の一件に、千聡は隣で安堵したような息を吐く。横目で一瞥しても、常夜灯の中では全ては見えない。

 昨日はソファに寝てもらったが、今日は隣で寝ている。間にちょうど一人入りそうなほど離れて、手を繋いだ。十数年ぶりの手は大きく分厚くなっていたが、熱いのは変わらない。

「分かってたの?」

「高校の時からな。でも俺が櫛田に事実を話したところで、昔も今も素直に納得したとは思えない。他人に否定されれば一層、自分の信じることに執着したくなるもんだからな。特にそれが、惚れた相手のことなら」

 頭では理解できても、感情を納得させるのは難しい。自分の好きな人を悪しざまに言われるのは、自分を悪く言われるよりも腹が立つものだ。

「執着を捨てるのは、自力で悟った時だ。だから暁に任せたんだよ。あの仕事で飯食ってる奴が、暁の本質を見抜けないわけないからな。といってもかなり執着してたから、もっと時間は掛かると思ってた。中室さんも、『あいつ旧姓でしか呼ばないけど大丈夫ですかね』って心配してたし」

 ああ、と気づいて頷く。確かにずっと「日羽先輩」だった。

「そういえば、そうだったね」

「百合原が執着してたのは『日羽暁』であって、『剣上暁』じゃないからな」

 どちらでも同じ人、にはならなかったのだろう。長く抱えているうちに拗れてしまったのか。好きな気持ちをそのままに保つのは、きっと難しい。

 少しの沈黙が流れたあと、長く息を吐く音がした。

「檀家会の中では、百合原を俺の嫁にって話は昔からあった。姉さん達は百合原を気に入ってたけど、俺は気に入らなかった」

「どうして?」

「小さい時は『なんとなくいや』としか表現できなかった。あと、俺より年上だったから」

「そこ?」

 付け足された理由に、思わず隣を向く。璃子は八月、千聡は九月、私は十月。その差が、それほど重要だったのか。

「四歳やそこらの子供なんて、そんなもんだろ。暁が十月生まれって知った瞬間、一生面倒見ようと思ったしな。単純だ」

 明かされた幼い決意が今は微笑ましくて、笑う。

「でも育つにつれて語彙力や表現力が増えてくると、『なんとなく』の中身が分かってくるだろ。それで、百合原の『他人を利用して自分の株を上げる』底意地の悪さが気に入らないんだと、理解できるようになったんだ」

 この辺りは、さすが寺の子と言うべきか。自ら感情を紐解き内面を見つめようとする子供は多くない。大人でも、自分の漠然とした不快を放置しているのは珍しくないだろう。

「小二くらいの頃に、檀家の子供達と本堂で遊んだことがあってな。その時、百合原が自分一人でするって後片付けを引き受けたんだ。ほかの奴はあっさり任せて外に遊びに行ったけど、俺は途中で戻った。そしたら、大人に『みんなが私に押しつけて遊びに行った、嫌われたくなくて強く言えなかった、でも私は片付けが好きだから大丈夫』みたいな芝居を打ってたんだ。戦慄したぞ」

 小学校低学年で、既にその強かさがあったのか。もう、自分が「持つ側の人間」であることを分かっていたのだろう。あの見た目が、どれほどの武器になるかを知っていた。

「その芝居が年々、『俺に好かれるため』になってきてるのは分かってた。中学に入って暁に近づいたのも、そのせいだしな。まあそれで暁が明るくなったのは事実だから、何も言わなかった」

 あの頃、事実を聞いたところで……いや、千聡が言うのなら信じたはずだ。信じて一層、怯えて暮らすようになっていただろう。だから、言わなかったのか。

「元の気質もあるだろうけど、人との関わり方は家族を通して学ぶ。ある程度までは『親のせい』だから、同情の余地はあった。暁があの環境で歪まなかったのも『親のおかげ』だしな。ただ百合原にしろ暁にしろ、道は一本しかなかったわけじゃない。いい方にも悪い方にも、本人の選択で転がっていけただろ。でも百合原は『変わる苦痛』を拒んで、暁は『耐える苦痛』を選んで踏みとどまった。百合原が気に入らなくて遠ざけたというより、俺は、暁が良くて傍にいたかったんだ」

 言葉とは裏腹に、声は暗い。内向きに寝返りを打つと、千聡もこちらを向いた。常夜灯にぼんやりと浮かび上がる白衣びゃくえの肩は、目で分かるほどに分厚い。昔から骨の太い感じはあったが、更に堅牢になった。

 顔立ちも、と少し歪んだ鼻筋を眺める。けんかは強かったが、常に無傷だったわけではない。鼻は一度折れているし、歯は数本差し歯だ。切って縫ったのも、一度や二度ではない。何度血を流しても、やめようとしなかった。

「先代に、暁が苦しくなるから少し手を離せと言われたのに、聞けなかった。やりすぎるなと、何度も。でも」

 溜め息をつき、少し視線を伏せる。

 千聡がけんかを繰り返すほど、「千聡にけんかさせている」私は大人達に嫌われた。特に檀家会と、純香と清良に。璃子はずっと私の味方をしてくれていたが、胸の内では違っていたのだろう。

「今日、二十年ぶりくらいに人間らしい情を持って百合原と会話をした。なるべく見ないようにして経を上げたら、礼を言って笑顔で消えていった。もう、出て来ないかもしれない。百体潰しても怨霊として残る可能性に備えてたのに、こんな簡単なことで解ける執着だったんだな」

 璃子は、ずっと好きだったのだろう。やり方を間違えていただけで、胸にあった気持ちは私と変わらないものだった。

 空いていた手を、頬に伸ばす。昔とは違う骨っぽさに少し驚いたが、当たり前だ。もう、ふくふくとした子供でもなければ、瑞々しい少年でもない。

 千聡は私の手に、自分の手を重ねる。

「今週末、京都に行こうと思うの。親戚の美術館に、本家のものが寄贈されてるらしくてね」

 櫛田に寄贈品を引き取りたいと話したら、繋ぎの一報は入れてくれたらしい。個人的な交渉は、明日から始める予定だ。引き取れるのなら引き取って、無理なら借りて、事件との関係を探りたい。ただ物が物だけに、一人で向かうのは不安がある。

 もし頼れるのなら、と切り出しそうになった時、千聡の後ろで携帯が鳴る。千聡は溜め息をついたあと、手を解いた。確かめた携帯を手に腰を上げ、寝室を出て行く。

 こんな時間にかけてくるのだから、家族の誰かだろう。住職はないだろうから、奥様か、純香。

 純香と清良は仲が良かったから、私と関わって死んだと知って怒り狂ったはずだ。千聡は何も言わないが、想像に難くない。今日は、引き止めるべきではなかったかもしれない。仰向けになり、さっきまで触れていた両手を常夜灯に翳す。

 そういえばまだ離婚して二日しか経っていないのに、びっくりするほど思い出さない。

「私も結構、強かだよなあ」

 璃子の生き方とは違っても、私も決して弱くはない。まるで一時凌ぎに利用しているようで申し訳ないが、全て片付くまでだ。

――全部片付いたら遠くへ、誰も知らんところでやり直すんだ。じいちゃん達を置いて行くなんて思わなくていい。暁がのびのび暮らしてくれたらもう、なんの心残りもない。

 この前、祖父は別れ際に優しい顔で言った。私が町から遠ざかりながらも市内より外へ出ずにいる理由が、分からないはずはない。泣きそうな顔で頭を横に振る私を枯れた腕で抱き締め、もういいんだ、と震える声で許した。

 全て片付いたら三月で今の高校を辞めてこの家も売り、遠くへ行く。櫛田には悪いが、誰の力も借りずに逃げるつもりだ。誰にも知らせず、一人で。

 通話を終えて戻ってきた千聡は、再びベッドに寝転がる。

「『帰って来い』じゃなかったの?」

「俺が必要な理由はない」

 「家族だから」は一番の理由になる場面だが、千聡は完全に拒絶しているらしい。警察署の天井に叩きつけられた清良の姿と骨の折れる音はまだ、生々しく記憶に刻み込まれている。あの時手を緩めたのも、私が頼んだからであって許したからではない。

「今週末、空けておく。予定が決まったら教えてくれ」

 まあ、察せないわけがない。でも今は、一人の不安に勝るものが湧いていた。

 黙った私に、千聡は寝返りを打ちこちらを向く。

「俺は、暁がいればいい」

 そんな言葉を、簡単に口にすべきではないだろう。答えない私に、千聡は手を伸ばす。横目で確かめた距離が予想より近くて、慌てて体を起こした。

 さすがに、それは無理だ。かといって「このまま距離を取って寝ましょう」の残酷さが分からないほど、若くもない。

「ごめん、今日は私がソファで寝るよ」

「暁」

 掴まれた手に、視線を落とす。固く握り締める手は、振り払っても解けそうになかった。

「何もしないから、ここで寝てくれ」

「その『何もしない』は『何かする』って意味じゃないの」

「俺は坊主だぞ。手を出す時はちゃんと言う」

 それもそれで問題はあるが、今はまあ、それでいいのか。

 諦めて横になると、千聡は長い息を吐く。それでも手は指を絡めて、さっきより強固に繋がった。おやすみ、と聞こえた大人しい声に頷く。何も考えないように、目を閉じた。

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