第24話

 昼間でも遠慮のない璃子が授業中に出てこないのは、千聡曰く「生徒がいる状態だと陽の気が強い」かららしい。うちは大学進学を必死に目指すほどではない、それなりに収入のある家の子供達が通う高校だ。一高の民度の高さが賢さによるものだとしたら、うちは心の余裕によるものだろう。総じておっとりとした柔和な子が多い。問題を起こす生徒が少なければ、職員も尖らない。進路指導の腕で見る目が変わるようなこともない。璃子が出てこない理由は、納得できるものだった。

 ただ「生徒が多くいる時には出てこない」ということは「生徒が帰ったら出てくる」わけで、それは既に証明されている。だから、残業は控えめにして帰宅する方がいい。幸い離婚の影響で、職員室が気を使ってくれている。定時帰りの私を慮る視線で見送ってくれるのは申し訳ない反面、ありがたい状況ではあった。


「逆藤の部屋にあった指紋と有前清良の指紋は、一致しませんでした」

 帰宅後折り返した電話で、櫛田は気落ちした様子で告げる。やっぱり、まだ終わらないのか。ソファに凭れ、眉間を揉む。それと、と継がれた暗い声に指を離した。

「課長が、一連の事件の捜査打ち切りを決めました」

 ああ、と小さく漏れたが、まるで予想していなかったわけではない。こんな捜査のために、市民の税金と貴重な人員をつぎ込み続ける訳にはいかないだろう。

「これ以上、法で裁けない事実を追い求めて部下や署員を危険に晒したくないと。情報を抑え込むのも、限界なんだと思います。申し訳ありません」

「いえ、そんな。妥当な判断です」

 ここまで抑え込めただけで相当なものだ。SNSで流れていた真実も、素材のありえなさに救われて今ではすっかり下火になっている。

「ここまで力を貸してくださって、櫛田さんにも中室さんにも、課長さんにも感謝しています。仕事とはいえ何度も危険な目に遭わせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」

「謝らないでください。おかげで視野も広がりましたし……ただ、先輩のごはんが食べられなくなるのが寂しいですね」

 後輩が、かわいいことを言う。

「これからはもう先輩と後輩でしかないんだから、食べたくなったら連絡して。今日、これから親子丼作るところだけど、もし良かったらどう?」

「マジすか、行きます。多分、七時半過ぎになりますけどいいですか」

 嬉々として答える声に、思わず笑った。相変わらず片付かない問題はあるが、明るいことがなければ息苦しい。逃げ出さなくても生きていけるように、温かい繋がりを求めていかなければ。

「大丈夫。千聡くんは九時すぎるらしいし」

 清良の通夜は明日、葬儀は明後日らしい。術の更新は毎日必要とはいえ、こんな時にまで呼び寄せてしまうのは気後れする。

 じゃあまた、と通話を終えた携帯を置き、溜め息をつく。

――奥様じゃない。奥様とよく声が似てるから、勘違いしたんだろう。

 昨日、夜分の電話に応えた祖父は溜め息交じりに否定した。

――それを言ったのは、純香さんだ。

 明らかになった事実に鈍い後悔は湧いたが、全てが覆るほどではなかった。千聡の言ったとおり、三分の三が三分の二だったところで、私は同じように逃げていた。

 純香は当然、寺に戻っているのだろう。千聡は、何を話すつもりなのか。

 ああ、だめだ。やめよう。

 腰を上げて錫杖を手に、キッチンへ向かった。


 櫛田は用意していた親子丼と味噌汁を綺麗に平らげて、満足そうに手を合わせた。

「今日のごはんも、めちゃくちゃ旨かったです。厚かましくごちそうになって、すみません」

「気にしないで。二人分も三人分も大して変わらないし、一人だとどうでもよくなって手を抜くしね。おいしそうに食べてくれる顔を見るのが好きだから」

 千聡は味わいながら黙々と食べる方だから、静かでたまに不安になる。その点、櫛田は子供のように分かりやすくおいしそうに食べてくれるから、安心する。

「事件のこと以外にも、俺、先輩に謝りたいことがあって」

 麦茶のグラスを置きつつ切り出された話に、ダイニングテーブルの向かいを凝視する。途端に胸を占める不安に、落ち着かなくなった。

「最初の頃に、百合原のことを好きな友達がいたって言ったの覚えてます?」

「ああ、うん」

 漠然とした不安が絞り込まれて、戸惑いつつ答える。

「あれ友達じゃなくて、俺なんです。ふられたのも」

 明かされた事実に、固まった。

「ただその時に、友達に盗られた有前先輩が帰って来るのを待ちたいから無理って言われたんです。告白は二年の夏にしたんで、バレンタインの一幕にも『取り返そうとしてたんだな』って合点が行ってしまって。それからは先輩が卒業するまで、偏見の目で見てました。あ、もちろん恨んだり憎んだりってのはありませんでしたよ。ふられたのは俺自身の問題ですから」

 櫛田は麦茶のグラスを両手で握り締め、長い息を吐く。すっかり熟れて見えるスーツの肩が、今は弱々しく落ちていた。

「初恋ってわけじゃなかったんですけど、結構忘れられてなかったみたいで。亡くなったのも、ショックでなかなか受け入れられませんでした。高校時代のそれがあったので、先輩のことも内心では疑ってたんです」

「そこは別に、刑事の仕事をしてたと思えばいいんじゃないの?」

 疑いたくないものまで疑うのが刑事の仕事だろう。疑いやすいものを疑うのは、当然ではないのか。

 口を挟んだ私に、櫛田は苦笑を返す。今日は際立つ線の細さに心配が湧いた。このまま帰しても、大丈夫だろうか。

「ただ事件のことを調べるほど、先輩と過ごすほど二人の姿が逆転してきて。百合原が先輩に大量の術を掛けてると知った時に、『俺の思ってたような人じゃなかった』とはっきり分かったんです。ただそれを、まだどこかで認めたくなくて」

 それを言うなら、呪われている側でありながらしぶとく璃子を信じようとした私も同じだ。自分の理想を押しつけて、そこから外れた場所にあるものを認めようとしなかった。

「百合原が先輩を恨む理由を挙げた時、俺が百合原を悪く言える土台を作れば、先輩だって乗っかって悪く言うんじゃないかと思ったんです。そうすれば少しくらい、楽になるんじゃないかって。先輩がいやなところを見せてくれたら『ほらこの人だって』って思えますから。でも先輩はこれまでと一緒で、全く態度を変えませんでした」

 ああ、と思い出した一幕に頷き、麦茶を飲む。

 もし私が乗っかって一緒に悪口を言えるスキルがあれば、いろいろな場でもっと受け入れられていたかもしれない。誰かの……璃子の鼻につくことも、逆藤に疎まれることも、なかったのかもしれない。

「俺が好きだったあの人は、自分の欲のために平気で他人を利用する人だったんですね。そして俺は、何も悪くない先輩を一方的にいやな奴だと思い込んで、間違ってると気づきながら変わろうとしなかった」

 舌に残るほろ苦さを味わいながら、櫛田の懺悔を聞く。

 別に珍しいことではないだろう。現にあの町では、今でも私は「呪われた罪の子」のままだ。私の元へ謝りに来た者は一人もいない。私をあれほど傷つけておきながら、誰一人。

 俺は、と苦しげに櫛田が零した時、ぞわりとした悪寒が肌を伝う。しまった。

「櫛田さん、璃……子」

 慌てて顔を上げた先、櫛田の後ろにいたのは一高のセーラー服を着た、あの頃の璃子だった。今日は白くぼやけた様子もない、まるで生きているかのような姿だ。

 愕然とする私に後ろを向いた櫛田も、固まった。

「櫛田くん、だよね」

 少し高めのかわいらしい声で櫛田を呼び、横へ回り込む。櫛田は青ざめながらも、見上げる視線を離せないようだった。でもそれはもう、生きてはいない代物だ。

「惑わされないで!」

 腰を上げ、壁に立て掛けていた錫杖を掴む。いつでも戦えるよう構えた私に、璃子は緩く頭を横に振った。

「そうやって私を悪者にしようとするところ、変わってないんだね。櫛田くん、騙されないで。こうやって自分の不幸で同情を誘って、私から大事な人を奪っていくのが暁のやり方なの。千聡くんも、その手で奪っていったんだから」

 寂しそうな笑みを浮かべながら、さらりと零れ落ちた髪を耳に掛ける。あの頃と変わらない、美しくまっすぐな黒髪だ。なんとなく、美容院へ行くタイミングを逃して形の崩れた自分の髪を撫でる。

 小学校と中学校では、伸ばすと引っ掴まれるから伸ばせなかった。高校になって初めて伸ばしてみたものの、私の髪は茶色く、伸ばすと癖が出てくるりと巻いた。「理想」にはほど遠いポニーテールに落胆して、結局ここに戻った。髪の毛すら璃子のようにはなれないのだと、短くした髪に俯いた。

「告白してくれたの、嬉しかったよ。でも、ごめんね。あの頃はどうしても暁にやり返したくて、味方が欲しくて嘘をついたの。子供だったから、自分のことしか考えられなかった。本当に、ごめんなさい」

 少し視線を伏せ、切々と櫛田に語り掛ける璃子を見つめる。神妙な表情は清らかで、本当に悔いているように見えた。向けた錫杖に、迷いが湧く。

 ぶっ叩かなくても送れるなら、もちろんその方がいい。本人が心から詫びて、それで仏様の慈悲を受けられるなら。

「確かにもう生きてはいないけど、どうしても謝りたくて出てきたの。私が間違ってた。ごめんね、櫛田くん。好きになってくれて、ありがとう。最後に、きれいな姿を見てもらえて良かった」

 品の良い口元に湛えられた笑みは全てを悟ったようで、錫杖を立てる。失せた戦意に、長い息を吐いた。

「これが、最後のお願いなの。私、傷つけられすぎて、このままだとあの世に行けないみたい。もう一度、私の味方をしてくれないかな。味方だと言ってくれたら、それでいいから」

 でも楚々とした唇が継いだ願いは、受け入れがたいものを含んでいた。冷水を浴びせられた心地で、櫛田を見る。相変わらず璃子に釘付けになったままの視線に、負けを察した。

 璃子なら錫杖でぶっ叩けばいいが、櫛田はそうはいかない。一瞥した時計は八時半、千聡は間に合わないだろう。

「……そうやって他人を利用して、自分の手は汚さずに来たんですね」

 やがて切り出した櫛田に、落ちていた視線を上げた。

「味方なんて、するわけないでしょう。二度も騙されるほど馬鹿じゃないですよ。まさか、自ら最後の情を消しに来るとは思いませんでしたけど」

 見据えて言い放った櫛田に、璃子の表情が変わる。途端、品の良い笑みは泥のように流れ落ち、人と思えぬ姿が現れた。今日は獣ですらない、薄桃色の肉塊だ。灯りに照る粘液をまとい、ぶよぶよと蠢く。

「お、まえ……ごと、きが……」

「逃げて!」

 恨みのこもった声に、長く持ち直した錫杖を振り上げる。椅子から素早く逃れた櫛田を、触手のような管が追った。テーブル越しにその触手目掛けて振り下ろすと、鈍い音と悲鳴が響く。テーブルの上で、空の器が小さく震えた。

「大丈夫?」

「はい!」

 無事らしい櫛田に安堵し、回り込んで璃子に対峙する。錫杖をいつものところで持ち直し、また構えた。あと、九十六体か。

「あ、んたの、せいで……あん、たの……」

「自分のせいでしょ、全部! 何もかも持ってたくせに」

 泥の山のような体を揺らしながら向かってくる璃子に、錫杖を振り下ろす。

「自分の浅はかさの後始末に、後輩を巻き込まないで!」

 間髪入れず二発目を叩き込んだところで、インターフォンが鳴った。

「櫛田くん、開けて!」

 はい、とすぐにインターフォンへ走った櫛田に璃子が反応したのは、誰が来たか分かったからだろう。千聡なら一瞬で送れるのに、やっぱり怖いのか。

「有前先輩です、開けました!」

 報告を耳に流しつつ、顔に飛び散った血と汗をまとめて拭う。何発目か、ようやく鈍くなった璃子の動きに肩で息をする。このペースでは間に合わないが、かといってこれを一日数回は無理だ。死んでいると思おうとしても、感覚は何一つ消えていかない。

 荒い息を吐き錫杖を振り上げた時、肉塊が急速に縮み再び「人型」になろうとする。ただ完全には戻れなかったと見えて、顔の半分と体の一部は崩れたまま残った。

「やだ、やめて、会いたくないの!」

 半分だけ残った顔を血と涙で濡らしながら、璃子は涙声で訴える。片方しかない眉を顰め、暁、と縋るように私を呼んだ。

「こんな、こんな姿じゃ会えない」

 苦しげに零して座り込み、璃子は崩れた顔半分を隠すように潰れていない側の髪を無理やり持っていく。まるで私を忘れたかのような姿に、なんともいえないものが湧いた。

 こんなの、私には無理だ。

 程なくして聞こえたチャイムの音に、櫛田に錫杖を渡して玄関へ向かう。

 ドアを開けると予想どおり千聡がいて、いつもの表情で「始末できたか」と聞いた。

「まだだけど……できるだけ、見ないようにして送ってあげて」

 視線を落として願うと、千聡は少し間を置く。ああ、と短く答えて草履を脱ぎ、リビングへと向かった。堰を切ったように溢れ出した涙を抑えきれず、座り込む。恐怖や怒りより遥かに堪えた姿に、顔を覆った。

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