第23話

 病院から連絡をしておいたから分かっていたが、警察署に着いたのは千聡の方が早かった。ただ今日、署にいたのは千聡だけではない。おそらく清良が呼んだのだろう、住職の姿もあった。警察署に僧侶二人、一連の事件は署内を回っているはずだから、本格的にお祓いを頼んだのだと思われていそうな雰囲気だった。

 迎えた櫛田に診断書を渡していると、久しぶりだね、と背後から住職がもったいぶったような声を掛けた。

 医師に頼んで貼りつけてもらった頬の湿布を撫でつつ、振り向く。住職は昔の記憶のまま線の細い柔和な顔立ちで、私の頬から視線を逸らした。

「お久しぶりです。お変わりはございませんか」

「おかげさまで。今回は娘がとんでもないことをしたようで、申し訳なかった」

 法衣の袖を払い殊勝な言葉を吐く住職の背後で、千聡は視線を伏せる。どうせ、今回も殴らないのだろう。分かっている。

「『とんでもないこと』なんて、まるでこれが初めてみたいに仰るんですね」

 切り出した私に、住職の表情が明らかに引きつった。

「それは」

「あなたの娘達が幼い私に暴行し続けたことも、彼女が私を参道の石段から蹴り落として骨折させたことも、全てご存知だったはずでは? まあ、一度も謝罪をいただいたことはありませんでしたが」

 これ以上、遠慮するつもりはない。私はもう子供ではないし、与えられたものに躊躇するほど清らかでもない。使えるものは全部使って、自分で幼い頃の自分を救う。

「まさか、住職が謝罪の言葉をご存知だとは思いませんでした。私に詫びに見えた先代と、それを巡ってけんかなさるほどの方ですから」

 冷ややかに伝えて笑む私に、住職は荒く咳払いをする。円満な解決など、絶対にさせない。

「申し上げておきますが、被害届は出しますし、示談には一切応じません」

「そんなことを」

 顔色を変えた住職は、はっとして次を飲む。

 続けるつもりだった言葉は分かっている。「すれば日羽の家がどうなるか分かってるのか」だ。

 きっとそうやって、これまで娘達の数々の所業を「なかったこと」にしてきたのだろう。腹の底で蠢いていた暗いものが、醜く膨れ上がる。もう、抑え込むのは難しい。

――つらい時はわしや千聡か、胸の中にいる仏様に話すんだ。一人で我慢したら、暗い考えは腐ってろくなことにならん。腐って旨いのは、納豆くらいなもんだ。

 胸の仏様なんて朝夕の読経を辞めたあの時からもう、ずっといない。そんなもの。

 そうだ、恨め。呪え。

 背後でまた何かが、大きく口を開けたのが分かる。目の前の住職の顔が、黒く歪んだ。

「暁」

 聞こえた声に我に返った瞬間、どん、と久しぶりの縦揺れに襲われる。まさか。

「有前先輩、三階です!」

 携帯を手に階段へ向かう櫛田に、千聡は私から手を離す。思わず、その手を掴み直した。

「私を目掛けて来るんでしょ、私も行く!」

 千聡は答えの代わりに私を抱え、階段へ走る。

 間違いない。憑かれたのは、清良だ。

――そうだ、恨め。呪え。

 あの時、受け入れそうになった。消えてしまえばいいと思いそうに。握り締めた法衣に、暁、と小さく千聡が呼ぶ。

「今の俺なら暁も、日羽も守れる」

 二度目の言葉を口にしつつ、生を選ぶ人の流れに逆らい階段を駆け上がって行く。

「信じてくれ」

 上から響き渡る咆哮に、切実な願いが乗る。びり、と階段の手すりが震え、照明が激しく点滅した。

 信じたくないわけではない。寧ろ、信じたいのだ。でも。

 その場凌ぎでは出せない答えに、唇を噛む。千聡も、それきり黙った。


――当分ホルモン食えねえな。

 憑き物と化した清良を見て最初に思い浮かべたのは、中室の言葉だった。確かに、これは。

 何度か現れた璃子とも、全く違っていた。

「あああ、ゴ、ミ、ゴミ……し、ねぇ」

 四つん這いで廊下の奥から窺う清良は、臓物にも見える何かを体に巻きつけて、粘液を滴らせている。目はなく、大きく裂けた口が顔の半分を占めていた。ただ、顔といっても……穴に臓物を無理やり突っ込んではみたものの収まりきらず溢れてしまったかのような見た目で、腸のようにも見える薄桃色の管が、いたるところから垂れていた。

 私以外は複数回の遭遇だが、私は初だ。気分が悪くなるのは致し方ない。

 千聡は私を背後に隠し、数珠を手に読経を始めた。

「ちさ、とぉぉ……」

 ふと声色を変えた清良に、陰から様子を窺う。清良は近づきながら、むくんだように膨れ上がった手を千聡へ伸ばす。姿形に「清良らしさ」は全くないが、水疱だらけの指先には艶のあるネイルがあらぬ方向に刺さっていた。

 また名前を呼びつつ近づいた手が、次の瞬間、弾けるように飛び散った。

「ぎぃやぁぁあ」

 響いた咆哮に、突風が突き抜ける。櫛田に引き寄せられ、千聡の後ろへ引っ込む。吹き飛ばされた備品が、轟音と共に私達の前に落ちて積まれていく。

「俺の後ろから出るな!」

 千聡は数珠を握り直し、読経の声を強くする。

「ちさ、ちさと、ちさとぉぉ……なん、でええ」

 既に私から標的が移ったのか、清良は犬のように千聡を目掛けて駆け寄って来る。地面を蹴る度に地震のように揺れ、重い音がした。

 不意に、千聡の手が上へと払うように動く。途端、駆けていたはずの清良が凄まじい勢いで天井に叩きつけられた。揺れる地面に櫛田を頼りつつ、呻く清良を見上げる。

「……ち、ちさ、たす、け……」

 掠れる声は、助けを求めているようだった。手を失くした腕から、血と粘液が滴り落ちる。でも次には、べきぼきと固い枝が折れるような音と共に今日一番の咆哮、ではなく悲鳴が響き渡った。

「ひでえな」

 ぼそりと漏れた中室の声に、はっとする。

「千聡くんやめて、ここまでしなくていい!」

 慌てて法衣の袖を掴んだ時、千聡せんそう、と後ろから険しい男性の声がした。

「まさか、あれが清良だと言うんじゃないんだろうな!」

「ほかに誰がいるんですか。人の心を持たない外道に、ふさわしい最期です」

 顔色を変えて掴み掛かった住職に、千聡は臆せず言い返して手を払う。

「元に、元に戻せ! できるだろうお前なら、先代の術があるはずだ!」

「私が先代に学んだのは、御仏の元へ送る術のみです。救う術など知りません」

 眉一つ動かさず告げる千聡に、住職だけでなく私も固まった。

 わざと、学ばなかったのか。

「下ろしますから、連れ帰って住職が面倒をみてはどうですか。これまでどおり、寺の金を横流しして養ってやればよろしいのでは?」

「せ、千聡!」

 とんでもない醜聞が持ち上がっている間も、清良はずっと天井で、骨の砕けたらしい四肢をだらりと垂らしていた。

 私の策にはまって平手打ちした時は、「ざまあみろ」としか思えなかった。暗い愉悦だと分かっていても収まらなかったし、下で住職に会った時には完膚なきまでに叩きのめしてやりたいほど憎かった。でも、今は。

 現実の仕打ちが想像を超えると、こうなってしまうのだろうか。胸に残ったのは、哀れみだった。

「もういいから、苦しまないように送ってあげて」

「お前、元はと言えば全部お前が!」

 住職は敵意も何もかもこそげ落ちた私の胸倉を引っ掴……めるわけもなく、逆に千聡に掴み上げられた。

「親子げんかなので、ノーカンで」

 ちらりと流した千聡の視線に、中室は了承の手を挙げる。千聡は拳を振り上げると、昔懐かしい音を響かせて住職を殴り飛ばした。


 あのあと清良は静かに下ろされ、大人しい読経の声で送られた。程なくして元の姿に戻った右手のない遺体を、頬を腫らした住職は抱き締めて泣きじゃくった。どんな娘でも子には違いないし、どんな父親でも親には違いない。「正しくなければ愛ではない」というのは、あまりに傲慢な気がした。

 私達は前回よりもあっさりと放免され、ひとまず私の家に帰った。よく考えたらもう、被害届も示談も必要ないのだ。死んだのだから。

 食欲は湧かなかったが食べないわけにもいかず、千聡と二人でインスタントラーメンを啜る。

 今日はまだ、月曜日だ。明日はまた朝から、教師の顔をしなければならない。湿布を剥がしたあとの頬は腫れていなかったから、大丈夫だろう。

 なあ、と聞こえた声に、麺を啜りつつ斜向かいへ視線をやる。

「今日、泊まっていいか」

 とんでもない要望に、麺を啜る口が止まった。まあ確かに、今日家に帰れば針の筵だろう。事情はどうあれ、清良を殺したのは確かだ。自分の姉を。

「ソファで良ければ」

 目を閉じればあの姿が浮かびそうだから、正直少しありがたい申し出ではある。

「床でいいぞ」

「だめだよ。この前熱が出たの、床で寝たからだもん」

「何があったんだ」

 頭を横に振った私に笑うが、元気がないのは見て取れる。私のことを除けば、悪い思い出だけではなかったはずだ。救う術をわざと学ばなかったのは、迷いを持ちたくなかったからか。

「あの人は、旦那に隠れて娘を虐待してたのがバレて離婚されたんだ。旦那が娘を溺愛するのが許せなかったらしい。俺を旦那に変えて、おんなじことをしてたんだよ。今度は、自分の娘にな」

 やがて切り出されたのは予想していたものと正反対の、とんでもない話だった。そうだ、確か中室も親権を渡していると言っていた。

「住職が金積んで口止めして単なる『性格の不一致』になったから、町には流れなかった。だから少しの反省もないまま、働きもせず寺の金を使って遊び呆けて、暇を持て余して暁の幸せを潰した」

「奥様は、何も言わなかったの?」

「あの人はもう、俺に寺を継がせることにしか興味がない。暁のことは気に入ってるけどな」

「そんなこと」

 そんなわけがない。

 反射的に答えた私を横目に、千聡は一足早く食べ終えて手を合わせる。

「高三の夏に、位牌堂で聞いたの。私を千聡くんに嫁がせようなんて馬鹿なこと考えないでくださいねって。それで私、やっぱり奥様にも嫌われてたんだって」

 そう思ったら、耐えられないほどに息苦しくなった。あまりにも望まれていない自分が情けなくて、逃げる以外の選択肢が消えた。

 でも、あれが奥様でないのなら。

「まあ誰が言ってようが、結果は一緒だ。どのみち俺にはまだ、暁を守れる力がなかった。連れて逃げても、食わせていく自信はあった。死にもの狂いで働けばいいだけだからな。でも呪詛は、自信だけでどうにかできるようなものじゃない。『いつか』とは言えても、具体的なことは何も言えなかった。夢みたいなことばかり並べたところで、暁が楽になるわけなかったんだよ」

 少し遅れて手を合わせつつ、初めての悔いを聞く。

「でも今は、食わせていく自信も呪詛に対処できる力もある。年収五百五十万で預金も二千万あるし」

「もうちょっと、振れ幅小さくしてくれない?」

 後半の生々しさに項垂れて、溜め息をつく。さすが檀家四百軒の古刹、周囲には廃寺待ったなしの貧乏寺が溢れているのに、凄まじい財力だ。

 軽く笑い眦を緩める姿を見つめ、何かを思い掛けてやめる。あまり良いことではないだろう。

「ごちそうさま。お風呂の準備、してくる」

 再び手を合わせ、食べ終えたカップを手に腰を上げる。

 千聡は確かに今日、私を守る力があることを余すところなく証明してみせた。同時に、私を殺そうとするものを救う気が全くないことも。たとえ血の繋がった家族でも……というより、最初から「こうするつもりだった」のではないのか。

――救う術など知りません。

 清良が憑かれたのは多分、あの時の感覚が理由だろう。声に誘われ、飲み込まれてしまいそうになった。一時的に結界が解けてしまったのかもしれない。千聡が私を呼んだのも、それを察してだろう。でも。

 千聡はあれに、もっと早く気づけていたのではないだろうか。

 洗い終えたバスタブをシャワーで流すと、人工的な香りが立つ。

 『我のみと思ひそ人の見悪しを流れて絶えむ玉は黄泉なり』の「我」が九百年前の人物なら、麝香を潤沢に使えるのは不思議ではないのかもしれない。ただそれにしても、「亡霊」が麝香を口に突っ込み逆藤になりすまして、教育委員会で働いたのだろうか。

 もし清良の指紋が一致すれば、これで全てに片がつく。でも、そうでなければ。

――暁ちゃんを千聡に嫁がせようなんて、馬鹿なこと考えないでくださいね。

 腰ポケットから取り出した携帯は午後九時五十分、もう寝ているかもしれないが仕方ない。

 実家を選び、聞こえ始めた呼び出し音に唾を飲む。

――今の俺なら暁も、日羽も守れる。

 バスタブに長く伸びる薄汚れた影を見つめ、唇を噛んだ。

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